今回の旅の目的は「那覇」を、もっと知ろう...ということが僕の中でのテーマ。

沖縄への旅は、いつも那覇空港近くで、レンタカーを借りて...

すぐに、国道58号線を北上して、恩納村周辺のリゾートホテルに宿泊をして、ま、その色々と、ということがほとんどで。

那覇の街を訪れるのは、いつも、旅の最終日に国際通りや牧志公設市場を訪れて...

お土産を購入して、沖縄っぽい?ものを何か食べて、レンタカーで慌ただしく空港へ向かうということが、これまた、ほとんどで。


今回は、先ずはご先祖さまにご挨拶を。500年近く前からのご先祖さまたちが...

「骨壷」に入り、眠る、1988年?に新しく移転した、那覇市市民墓地へと、沖縄そば店のEIBUNから歩く。

最高気温が34℃だったこの日...みるみる内に身体中に汗が流れ落ちて。

スーパーで購入した1Lの紙パックの紅茶も、あっという間に無くなる。

ちなみにこの日は、34,000歩ほどを歩いた。水分は3Lくらい飲んだと思う。

お墓で写真を、というのは憚られるので、Google mapsからの画像です。


バブル期に道路の拡幅のために移転を余儀なくされたご先祖さまのお墓。

400坪あって那覇市内でも最大規模で、最古の部類になる亀甲墓で、取り壊し、移転の際には学術調査的なこともされたらしい。

まだ、その頃は22歳だったし、父は三男坊だし、今なら、僕がしゃしゃり出て、計画を中止することが出来たかもしれない。

でも、それは負け犬でなないけれど、所詮、遠吠えで、覆水は盆に帰らず、で、時計の針は決して巻き戻せない。


この樹木が目印で。Google mapsからの画像だけど、前日まで「雨」だった天気予報..は、ハズレてこんな感じの夏晴れとなって。


普段、墓の中を見ることは、もちろん出来ないけど、父の納骨の日...


重厚な扉を大人3人がかりで、バールを使って開けると、奥には幅1m高さ80cmくらいの宮殿?豪華な家屋?を模した彩色された神々しい骨壷がずらりと並んでいて。


それらの骨壷は、スペースの関係で手前に向かって段々と小さくなっていくのだけど、無数の骨壷が並ぶ光景は、今も目に焼き付いている。ちなみに父の骨壷は30cm×30cmほどで。


途中までは「屈葬」というカタチで、ミイラとなったご先祖さまが納められている。


でも、それに対する恐怖みたいなものは、一切感じることはなくて。


感じるのは、感じたのは、畏怖と感謝の気持ちっけだった。


だって、この中の直系?の血のつながる1人やその配偶者の1人が欠けていたら...


僕も子どもたちも孫もこの世に、誰ひとりとして、存在していないのだから。



墓参りを終えて、牧志公設市場〜ホテルに向けて、違うルートを歩いて。


レンタカーの移動とは、明らかに違う。あたりまえといえば、そうなんだけど。


妻と会話しながら、笑ったり、街を見て、様々なことを感じたりして。


ただ、クルマの中から、いわゆる観光ルートを眺めるだけ、とは明らかに違う、明るい陽射しの中での、明と暗のコントラストが、時に胸を打ったりもする。



帰りには父の母校である...那覇中学校と那覇高校の前を通る。


1931年生まれだった父は、中学校1年生の終わりころには、ファミリー皆んなで、ヤンバルのジャングルへ避難したという。


米軍上陸前に祖父が、色々と考え抜いた上で北部へと逃げたらしい。


那覇市の90%が爆撃を受けて、沖縄戦でのその数は計270万発という凄まじい数字。


もし、南へと家族で逃げていたら、どうなっていたのだろうか。


そして、父は沖縄戦が終わった1945年の6月から、約1年を捕虜?収容所で過ごすことになる。だから、卒業時の総代では、あったらしいけれど、中学校時代、授業なんて半分ほどしか受けていないのだ。


1966年生まれの僕には、想像するのもなかなか難しい、父の青春...


でも、思いを馳せて、空を見上げて、父に、また、心の中で手を合わせて。


P.S.

父の高校時代は、自称...バスケット部のエースだったらしい。テニス部にも助っ人として、県大会に出場したらしい。


そして、美術部にも属していて...中学時代はほとんど叶うことのなかった「青春」を、目一杯、謳歌したという。


彼女とのデート、他、色々と忙しくて、成績はみるみる下がったらしいけれど、そんなところは僕も一緒かもしれない(笑)...



P.S.

父は7人兄弟姉妹なんだけど、父1人が対馬丸に乗船して鹿児島へと、疎開するはずだったらしい。約1,788名の乗員の内...


対馬丸記念館には、1,484人が犠牲になったという数字がありますが、これは氏名が判別している方の数字で...


米軍潜水艦により撃沈されて、生存した人は280人(諸説あり)で、学童は767人中(諸説あり)59人(諸説あり又は60人)で。


父は、天候の悪化のために、小さな船団(3〜5隻)を率いていた祖父の帰り(帰港)が、対馬丸の出港の日に間に合わずに...


中1であった父の乗船を延期する判断をした祖母。そんな偶然の上にも、僕たちの生命が存在している。


そして、多数の犠牲者のあった事件...あらためて、合掌。


生き抜いた父を持つ僕自身は、いつもそんな気持ちを抱きながら生きてます。


※乗船数が不明なのは、混乱の中で出航時間の直前に乗船をやめたり、又は間際に乗船した人が相当数いたと言われているからです。