昨日(過日の昨日)...銀座からの大男4人が軽自動車にぎゅうぎゅうに詰まった状態でのドライブで、僕と弟が2002年から...


家賃400〜500万円を、毎月、必死こいて支払って来た(OH! 累計10億超える!)僕たちの夢の場所。今は世界中の人で...


連日、溢れかえっています。ありがたい、本当に感謝、そして感激。


※今日のblogの写真は、僕がお客さまのいない、閉館後に撮ったもので、この日は土曜日だったこともあり、人、人、人だったので。



弟(今は社長)に100円玉×50枚を4本もらって、男4人で、フリーゲーム!



僕以外の3人は30代〜40代で。テーブルゲームやセガのハングオン(バイク)に大感激してました。もちろん、もっと古いゲームにも。


文字通りというか、皆んな少年、男の子になってました。嗚呼、感無量...



レストランオーナーの友は、日本から輸入したスクーターや、な、なんと...


Supremeのビンテージ風な縦型の業務用テレビゲームや、大型の太鼓の達人、他、色々と自宅に!あるみたいです。




こんなコーナーにも感激してくれてました。日本のカルチャーとしての暴走族や、雑誌POPEYEやMEN”S CLUBが大好きらしく。


感動っぷりが、凄かった、疑問?が解けました。嗚呼、良かった。



今はこの3倍くらいある...ジュースの缶のコレクションや、シャンプーボトルのコレクション、キン消しや、ミニ電子ゲームのコレクションの数々にも大興奮してくれて。



射的のコーナー(警視庁の営業許可を取得済み)では、4人でお菓子を30個くらい落としたかな?ま、計80発ですけど。



ウルトラマンにも興味を示してくれて...「コレって1972年製の『ガチャポン』なんだよ」と伝えたら「マジ?」と驚いてくれて。


あ、以前にも書いたけど、レストランオーナーは、日本の世界的企業の通訳だったんで、日本語はペラペラなんです。



なんだかね?僕の中で、昔からの思い描いて来た様々なことが結実して来ています。サッカープレイヤーにはなれなかったけど。


高校時代赤点ばかりだった英語も...今は、どうにか、最低限の意思疎通、会話は出来る様になりました(IELTSレベル5.5)...



そして、小学生の頃、地元川越の蓮馨寺というお寺の境内にあった出入り禁止だった小さな屋外遊園地「ドリームランド」...


奥には小さな射的コーナー(1人用)...ピンボールがずらりと並び、向かいにはガンゲーム他のアーケードゲームが。


入り口手前の詰め所?では駄菓子が売られていて、綿菓子を自分で作る機械があり、ピンボールとは違うスマートボールもずらり。


左奥、25m×15mほどの敷地には8の字の線路があり...実際のもちろん?生きたお猿が運転手(鐘を鳴らすだけ)を務めるチンチン電車が(なんだか物哀しくて)...


あとはつい最近まで、存在していた地元川越のデパート「丸広百貨店」屋上遊園地。観覧車やモノレール、飛行塔まであって。


もちろん、その傍にはゲームコーナーが。川越には西友、丸井、尾張屋、ヨーカドー等があり、1970年代頃までは、それぞれの屋上や階段にピンボールやゲーム(又はゲームコーナー)があって。


それはインベーダーゲームが登場した1978年以前のことなんだけど。


ファミリーレーンという川越にあった大きなボウリング場のゲームコーナーの充実っぷりは凄くて。中高時代は少し遠征?して狭山グランドボウルまで行くと、やはりずらりと並ぶピンボールがあって。



有馬温泉のグランドホテル的なところのゲームコーナーは6歳の頃。


沖縄で(本当はダメだけど)遊んだスロットマシン等々は父と一緒に遊んだ思い出がある...(1975年の海洋博の夏)


2泊3日、往復の琉球海運の客船の中のゲームコーナーでは、普段ならダメ!と言うハズの父が、毎日5,000円(50回)くらいプレイさせてくれて...出たばかりのTVゲームスタイルの(スリップしたりする)ドライブゲームとか。


その後は、あまりゲームセンター的な場所へは、インベーダーゲームブーム(1979年)の頃以外は出入りしなくなるんだけど...


小学生の頃に焼きついた、ノスタルジックな光景と、なんだか、少しせつない、虚しい様な気持ちがとても懐かしくて。


ずっと、そんな光景を再現したい思いが強烈にあって、36歳の時に、様々な偶然、今思うと、奇跡の様なことが起きて...


テナントとして(当時は住友商事グループ)と契約することが出来て。


当時は1部、又は2部的な上場会社か、3期、かなり黒字で、紹介のある会社しか、契約を結ぶことが出来なかったのに...


お台場の数千軒ある全ての商業施設で、初めて個人事業主として、これまた最年少で契約したんです。美空ひばりさんの息子さんに、次は弟にその最年少記録は破られたけど。


※お台場は開発が開始された(僕が20歳の頃はススキの茂る原っぱでした)当初から官民(警察も)一体となって...


優良なテナントとしか契約をしないルールがあり、データは共有されて、当時は屋台の営業許可も出さなかったんです。


だから、個人事業主初、最年少と、大変お世話になった日の丸もつけたことのある元ラガーマンの副支店長に言われました。


会った事もなかったこの人に、何故だか気に入ってもらえて、内規を変えてまでして、ビルのオーナーである...当時の7社(全て東証1部)を、口説き落としてくれたんです。


たくさんの書類を書いて、稟議を上げて、プレゼンでは、きっと熱弁をふるい...なんでそこまでしてくれたんだろう。


本当に感謝しかありません。世界中から訪れてくださるお客さまにも。


そして、なんだですかね、海外からやって来る友にも、自分の店で喜んでもらえるなんて、ね。幸せです。ありがとう。


58歳になりました。父、母、ご先祖さま、マイファミリー、ありがとう。


P.S.

明日は(過日の明日)...オハイオからのやって来る27年来の友を羽田空港へ迎えに行って、明後日からはTokyo tripです!