心身が不調なのでそれにあわせて暗い話をします(笑)

心と体というのは結びついてるので、暗かったり他人を攻撃したり

することを書いてる時は大体心身不調の時でございます。

そこらへんは仕方ない。

自分の書いてることは全部適当でその日の気分に左右されるんで、

どれも話半分で読んでいただければと思う。

 

 


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毒親の子供は非常に苦労するが、その毒はそれだけに留まらない。
かなり性格も歪んでしまう。

自分はまだ低レベルの毒親だからましだけど、それでもその毒を
自覚をすることがある。

それは自分の

「人間的器がすごく小さい」

ということである。
これは、自分の父親の人間性に嫌悪感があり、そういうタイプを許せないからである。
他にも毒親由来の性格の悪さはたくさんあるだろうけど、とりあえず自分が自覚した

性格の悪さを具体的に挙げてみる。



〇毒親の屁理屈

子供の頃はバカだったから、父親が理屈をこねた時それが正しいんだ、と思っていた。
しかし、父親よりはるかに能力的に高くなった今、

「父親の理屈は全てが屁理屈だ」

ということに気づいた。
なぜ、屁理屈を言うかといえば、

「自分がやりたくないことを全て屁理屈をつけて避ける」
「自分のやっていることを屁理屈で正当化する」

ということが目的である。
そうやって、

「自分がやりたくないことは屁理屈をつけて全部他人にやらせる」
「間違っているのに自分が正しいと主張する」

ということをやってきた。
この屁理屈で家族全員に迷惑をかけまくってきた。
だから、そういうのを見ると許せないし、殺意がわく。
一つ例をあげよう。

私のクソ親は音楽センスが皆無であった。
んで、小学生の時にベートーベンの曲の感想を書けといわれたけど書けなかった。
先生にその理由を問われた時に、

「耳の聞こえない音楽家が作った曲など評価する価値が無い」

みたいなことを言ったらしい。
もちろんクソみたいな屁理屈であることがわかるだろう。
こんなクソみたいな屁理屈はいくらでも反論できるだろうが、わかりやすいのは

「その音楽を評価したのは耳が聞こえる音楽家たちである」

ということである。

父親という音楽に関しては1万人に1人レベルのゴミクズ底辺のガキが大作曲家
であるベートーベンを屁理屈をつけて批判する。

自分が「感想文を書きたくない」というダダをこねるためだけにクズみたいな

理屈をこねる。

それを聞いた時自分は殺意が湧いた。
そんなガキはボコボコにして泣いて謝ってもさらにボコボコにして川に流したい
と思った(笑)

こういうクソみたいな屁理屈で自分の嫌なことを避け、全部他人にやらせて
生きてたのである。
そしてその負担は大いなる弊害として全部家族に、特に子供にやってきた。

自分の気に食わないことがあるとすべてに屁理屈をつけて子供にどなりちらし、
あたりちらし、暴力を振るった。
そこにはなんの正当性も正義もなかった。

しかもたちが悪いことに、自分の理屈が屁理屈だということに本人が気が付いてなかった。

最も頭が悪い人間は

「頭が悪いのに自分が頭が悪いと思っていない人間」

である。
それと同じだった。



〇屁理屈が許せない

実はこういう自分を正当化する屁理屈をいう人間は結構いる。
特に男に多い。
そういうのを聞くと、

「頭悪いクセに屁理屈こねやがって」

と、自分の父親を思い出して殺意がわくのである。
でも、そういう屁理屈は父親と違い

「誰にも迷惑をかけてない」

ことが多い。
自分を納得させるためだけの屁理屈である。
だから、笑って流せばいいことである。
でも毒親がオーバーラップして、それがなかなかできない。

このように器が小さくなってしまうのも毒親の毒である。



〇人生イージーモード

毒親は当たり前ながら、人生スーパーイージーモードであった。
なぜなら、

「人生で嫌なことを他人におしつけてほとんどしなかった」

からである。
若い頃は全部親にやらせ、結婚してからは全部母にやらせた。
だから、

「死ぬまで世間知らずのまま」

である。
スーパーで買い物する方法すらわからない。

自分はいくらかADHDのケがあり、それは父親の遺伝である。
だからよくコップに入った飲み物を不注意でこぼす。

自分はそこらへんを学習して、不注意でこぼさないような場所にコップを
置くことを覚えた。
でもやはり比較的安全な場所にコップを置いてすらこぼす。
その時はしかたなく掃除をする。

父親はどうか。
一生それを改善することはなかった。
すぐに落としそうな不安定な場所にコップを置く。
そして案の定こぼす。
しかしその掃除は全部他人にやらせた。
一度母親が「自分で掃除して」と言ったことがあったらしい。
その時は

「キレながら当てつけに近くに干してある洗濯した服をつかって拭いた」

らしい。
それを聞いた時、殴り殺したいぐらい殺意がわいた。
これは一例であり、すべてがこんな感じであった。
つまり、

「自分でやった失敗に一度たりとも責任をとらなかった」

のである。
失敗しても他人がその尻を拭う。
本人は何に痛みも負わない。
その結果、

「全ての失敗において一切の改善をしなかった」

のである。
失敗したことを死ぬまで繰り返し、他人にその責任をおしつける。
それどころか他人や他の事物のせいにする。
そうやって一生を過ごした。

「スーパーイージーモード」

な人生である。



〇イージーモード人生な人を見たくない

人生がイージーモードなのは、

「とても良いこと」

である。
それによって他人に迷惑をかけることがなければ、自分の嫌いなこと

をせずに生きていけるのは幸せで、理想的な生き方である。
努力に関しても、

「自分の好きな事だけで努力する」

のは良いことである。
「努力」とはいえ、それは楽しいことでもある。
ただ、

「自分の好きな事だけをしてうまくいってる人」

を見ると、自分と比較して嫌気がさしてしまう。
そしてゴミクソの父親がオーバーラップする。

自分の嫌なことを一切しなかった父親。
それどころか好きなことでさえ一切の努力をしなかった。

そんな人間がスーパーイージーモードで人生を送る。

そのあおりをくらい、自分の嫌いな事ばかりしてきた自分。
努力も自分の嫌いな事ばかり。
ただし、その努力によって当たり前だが能力は父親に比べればだが、比較する
のがバカらしくなるほど上になった。

そんな人間がハードモード人生となる。

その理不尽さに、嫌悪感というのではないけど

「イージーモードの人を素直に応援できなくなった」

のであった。

「この人はなんで好きな事しかしてないのにイージーモードなんだろう」

そう思うと素直に応援できなくなる。自分が惨めに思える。
ものすごく器が小さく狭量な考えである。



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以上。
毒親はすべてにおいて毒、という話。
もちろん、

「理屈ではわかってる」

のである。
でも自分の器の小ささを改善することはなかなかできない。
他人に毒親に重なる部分があると、どうしても毒親を思い出し黒い感情が湧いてくる。

それは上記に挙げた事柄だけではなく、あらゆる方面でそうである。
毒親の毒はこんなところにも効いてくるのである。