函館に来る目的の一つだったお気に入りの教会。
これまで滞在中は、連日のように訪れていた場所。
だけど今回は残念、改修中で閉鎖。
その代わり、これまで改修中で拝観できなかった教会に初めて入れました。
そしてラッキーなことに、聖歌が流れる神聖な雰囲気の空間に受付女性と私だけ。
穏やかで贅沢な時間を過ごすことができました。
函館に来る前、安楽死についてのドキュメンタリーを観た。
いつも生と同様に死も考えていて、いつかは自らの意思で人生を終えたいと思っていた私にとって、とても他人事と思えず動揺。
数日間起き上がれなくなるほどに落ち込んだ。
そして、ベッドの上で安楽死関連の記事を読んでいると、
どんな状況になっても生きたいという人に対し、
「私なら安楽死を選ぶ」
と言う赤の他人のコメントを目に入った。
私は安楽死容認派だけど、生きたい人の意思は守られるべきだと思っている。
更に気持ちが滅入った。
死など考える窮地にない(幸せな)人の上から目線の発言に思えたし、死の選択を押し付けているようにも取れた。
「さっさと離婚すればいいのに。私なら離婚する。」
そう以前私に掛けられた言葉にも重なった。
生きる死ぬ・離婚するしない、いずれの選択も尊重されるべきだと思う。
でも、他人が押し付けるものではない。
本当の正解なんて誰もわからないのだから。
当人が悩み葛藤するプロセスにいる最中、
他人が軽率に「私なら~する」と意見するのはあまりにも無責任で残酷な行為だと思った。
自分が当事者になった時、有言実行すればいい。
だけど、
「80過ぎたら大往生。生に執着しなくてもいいだろう」と言っていたのに、90歳を過ぎた今、もっと長生きしたいと言っている人も
「不倫されたら私ならすぐ離婚する!気持ち悪い!」とサレ妻に宣っていたのに、いざ自分がサレたら必死に再構築しようとしている人も
私は知っている。