私は東京でも他の地でも自転車か徒歩のことが多いです。
外の空気を吸いながらの一人時間は自分と向き合いながら考え事ができる時間でもあります。
昼間の空を眺めながらよく頭に浮かぶのが
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
という金子みすゞの詩の一節です。
そして思うことがあります。
裁判所では「見えないもの」は軽く扱われるなぁと。
心の傷への慰謝料があまりにも少なかったり、
殺された被害者より生きている加害者の人権が尊重されたり。
心を壊すのは罪ではないけれど、モノを壊すのは罪になる。
私は心を壊される方がよっぽど辛い。
裁判所に知って欲しい。
見えなくても、むしろ見えないものの方が、痛み、苦しみ、無念さがあることを。
判例を読んでいて、虚しいため息がでてしまうものがありました。
医師夫が他の女性と子供を作り実家で親と同居、離婚を求めたものです。
「離婚請求が認容されると,控訴人と2人の子が母子家庭となることについても,今日,離婚率の上昇により,母子家庭も必ずしも少なくなく,控訴人は破綻の原因については全く無責であり,生活の経済面の支援さえ確立していれば,社会的評価の面で辛苦を舐めさせられることもないところ,経済的な支援が充分であることは上記に説示したとおりであるから,離婚によっても控訴人を社会的に苛酷な状況に置くことになるとも認められない。
そして,離婚によって,控訴人に精神的苦痛を与えることは確かであるが,それは慰謝料によってカバーすることが可能なのであって、離婚による精神的苦痛が発生することが直ちに控訴人を精神的に苛酷な状況に置くわけではない。」
ここでの慰謝料は300万円です。
離婚による精神的苦痛が300万円の慰謝料でカバーすることが可能って、どうしてそんな無責任なことが言えるのだろう。
人一人の人生の扱いが軽いなと思いました。
もし300万円で今の苦しみから逃れられるなら、痛みを知らなかった日々に戻れるなら、払うから戻して欲しい。