エメラルド・タブレットは、「艱難期が終われば、地上天国が実現し、人は不死になる」と述べている事をご紹介しました。

 

これを裏付ける記事を書こうと思います。


 




第一に挙げられるのは、次にキリストとなられる方は、多くの覚者方と共に降臨なさるという事です。何と、あのマスター・イエスを含め、42人もの大師方を率いる大グループであるのが明かされているのです。

 

しかも、各大師方は、それぞれ自分のアシュラムをお持ちで、10人前後のお弟子さんがいます。

 

質問  いま世界に覚者方は何人いますか。まだもっと来られますか。(1982/8)

 

答   現在、世界に十一人の覚者方がおられ、まもなくもう一人の覚者が位置につかれます。究極的には四十二人の覚者方が出て来られますが、それは長い期間にまたがるでしょう。まずはじめは、最初のグループの十二人の覚者方が弟子達として、マイトレーヤによって世界に紹介されます。何人かは、パレスチナにおいてイエスと共にいた弟子達です。寵愛されたヨハネとよばれた弟子であった方は現在のクート・フーミ覚者であり、聖パウロは今はヒラリオン覚者であり、聖ペテロは現在モーリヤ覚者であり、そしてイエス覚者も共に、最初のグループのなかにおられるでしょう。

 

(出典: 「マイトレーヤの使命」 ベンジャミン・クレーム著 石川道子訳)



 

第5帖

 

八塩路の 塩の八百会母 いますくに。

天の声あるぞ。地の声あるぞ。和して十の日月地と現はれるぞ。

五十人の仁人が出て来るぞ。

仁人とは神人(カミヒト)のこと、この仁人が救世主であるぞ。救世主は一人でないぞ。

各々の民族に現はれて五十人であるなれど、五十と言ふ数に囚われるなよ、五十人で一人であるぞ。

数に囚われると、判らんことになり、岩戸しめとなるから気つけおくぞ。


 

五十人の仁人が出て来るぞ、仁人とは神人のこと、

この仁人が救世主であるぞ、各々の民族に現はれて五十人であるなれど、五十と言ふ数に囚われるなよ、

 

(日月神示 五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第5帖)

  [引用元]

 

 

これから起こるであろう、キリストの再臨は、私たちが思っているよりも、遥かに予想を超えたものであることを、私は皆さんにお伝えしたいのです。


 

エメラルド・タブレットに書いてあった未来は、実際に、成就されるのかも知れません。


 




これは、ケイシーが私たちに語った「福音」ではないでしょうか。なぜ、この様に語ったのかを考えながら読んでもらいたいと思います。

 

私も最初は気付かなかったのですが、リーディングのこの部分は、意識して読まなければ、この表現が何を意味するのか、必ず見落としてしまう重大な箇所なのです。金色の部分がそれなのです。


 


そこで、必要なことについて述べる。というのも、主はどの魂も失われることを望んでおられず、主、造物主において脱出の道を用意されている、ということを言われなかったであろうか、考えられ得るあらゆる角度からこの地上世界を経験することで示されなかったであろうか? 


ところで、忠実なしもべとは誰のことか? 最後まで耐え忍ぶ者のことなのである! 


そのため、主はあらゆる時代にやって来られる。「神とは霊である。そして霊において、真理において神を崇拝する人を探し求めておられる」という思想を新たに適用しようと関心が集められ理解を必要とする時に来られる。


そうして、地上に入られる経路を作ってきた人々、作ろうとしている人々によって道が準備される時、救済し、蘇生させ、復活させようという影響力が地上にやって来ることが可能となる。それ故、主ただお一人の中に存在するものとの密接な関係を構築することに対し、適切な理解と適切な関係へと向かう継続的な活動の中に―願わくは―この地上を保って頂きたい。あなた方はそれをアダムに見てきたし、エノクの中にそれを聞き、メルキゼデクの中にそれを知った。ヨシュア、ヨセフ、ダビデ、そして、イエスと呼ばれた方の準備を行なった当時の人々の中にも。たとえその指導者が、海原の小島、荒野、山岳にあろうと、あらゆる人種、肌の色の様々な活動の中にあろうと、肉のうちにある人々の心と精神に争いを産みだすあらゆる活動の中にあろうと、あらゆる活動分野での指導者の中に、あなた方は主の霊を見てきた。


と言うわけで、取り除かれなければならないものとは何か? ということになる。それは憎悪、偏見、自己中心性、中傷、不親切、怒り、情欲、そのほか人の子らの活動の中で作り出されるぬかるみのような諸々の状況、である。


そして再び、主はご自身の者を取り戻すために身体の中に入って来られる。今日主はこの地上の何処におられるのだろうか? さよう、地のあらゆる片隅から主を求めて叫ぶ人々の中におられる。何故なら、主、父なる神はご自分の魂が腐敗するのを眺めていることをよしとはされないからである。また魂を恐れさせているものに魂が定着しないためである。主は光の子、神の子であり、神のみ前にて聖である。そして主は、主の道を知ろうと努める人々の心と魂と精神の内に再臨される。


これらのことは肉の内にある人々には理解しがたいことである。肉においては、偏見、貪欲などあらゆる悪徳が支配権を握っているからである。しかし、時としてあなた方を食べつくしてしまう無知と熱情の中にあなた方がいたとしても、主に頼る者がむなしく行くことはないであろう…丁度あなた方のように。しかしここで、あなた方は黄金の錫杖(しゃくじょう)の音が響くのを聞くことができる…鈴が鳴る…主の御顔を求める人々の心の中で。あなた方もまた、主がこの地上に、肉のうちに来られ、主ご自身の者を名前で呼ばれる(至福千年の)時代に仕えることができよう』。


これで終わる。(5749-5)


(以上、リーディング検索システムより抜粋)


 

 

 私たちが超えることのできない宇宙の法則があります。

その法則の中でも、最大のものは「カルマの法則」だろうと思われます。

気の遠くなるほどの回数の転生を繰り返してやっと解消出来る「カルマ」という壁。たとえ今世で、罪のない人生を送ったとしても次の人生では、別の「カルマ」が待っています。

 

 しかし、既に覚者方は現れており、「闇の勢力」と戦って勝利目前の段階にあります。主の道が準備されたなら、キリストは再臨されると約束してくれています。

 

タブレットに書かれているのは、不死であり、「再び生まれ変わることがない」と言う事を意味します。

 

 かつて人類が経験したことのない、未曾有の出来事が実現しようとしているのです。

 




 さらに、別のリーディングが意味している事を、考察して見ましょう。


 


主、キリストを第一とし、信仰と希望を持って、彼の約束に信頼するなら、主が力を持って自身に代わり立ってくださる。 それは、人間関係について、律法と福音全体が述べている通りであり、そのようにして、すべての問題を主が取り扱ってくださるのである。(288-36)



このように、 ― 「見よ、終わりまで、我は常に汝とともにある」(マタイによる福音書28章20節)という主の約束の中にあるように、 ― 主は汝の道となり、そして或る者たちによって汝のカルマと呼ばれているものとなるのだ。(622-6)



(問) 現在の人類は神との調和に戻るでしょうか?   


(答) 聖書はどう言っているだろうか?  「主はどの魂も滅びることを望んでおられず、魂の経験の内に湧き起こる諸々の状況にあっても、試練とともに、脱出の道も備えて下さいます」…それらは生じ来る絶えざる変化である。成り行き(当然ながら、時と場所と状況を含め)による変化ではなく、それはいつもその個人の選択するものである。調和とは、個別的存在、実体つまり魂の内に神的力をつくることであり、そのことが魂に自らの段階を探させる。



(問) [ 560]: このことは、1934年8月12日に行われたリーディングにおいて、"主の日は、間近に来ており、魂は、永遠である! " とあることから、説明され得るのでしょうか? [ 参: 262ー69 パラグラフ 3] 


(答) 主の日は、間近に来ている。 このグループの各々の者が、主に仕えるという召命を受けている。 主の日は、間近に来ているのであって、 - - - と言うのも、夜が来ると誰も働けなくなるからである。 魂は、永遠に続くのである。 限りある精神に、永遠とは、始まりもなく、終わりもないのだということが、示されるように、主と望みを一つにした魂は、永遠の命を持つのである。 魂は、永遠であるから、汝の魂も永遠に続くのである。 であるから、道を真っ直ぐに保ちなさい。 主に見習って、光の中を歩みなさい。 日々、向き合うべき奉仕の仕事を喜んで行いなさい、主の日は、近いからであり、その時、主からの召命に授かっていた汝らは、主のぶどう園の管理人に、汝の為したことの報告をせねばならないのである。 日々、汝らは、各自が、自身の魂に、主の福音を書き記し、そして、他の人々は、そこから、その魂が、真に、信仰に根ざしているか否かを読み取るのである。 汝にとって、主の福音とは、何であろうか? 。




(問) グループ全体に対して、何かメッセージを頂けますか? 


(答) 汝ら、各々の願い、想い、目的を、人の子、イエス とひとつにしなさい; 主は、この世のものであって、しかも、この世のものではなく、又、主は、奇妙で不可思議な存在でもない。 主は、この世において、彼を取り巻く社会的環境において、仲間の人々との親しい交わりにおいて、それらを避けようとするようなことは決してなさらなかった。 そして、主の願いは、常に、"おお、主なる神よ、私の想いではなく、私を通して、貴方の御心が成りますように。" ということだった。 主が述べられたように、汝らは、皆、主に仕えるべく召されているのである; ある者たちは、ここで、犠牲を捧げる為であり、又、別のある者たちは、別のところで、苦難を経験したり、或いは、失望に見舞われたりするかもしれない。 しかし、もし、汝の 願いが主の願うところとひとつであるなら、主は、汝が、召命に預かっていることを成し遂げようとする時に、汝の妨げになるようなことが起きてくるなら、 - - - それが、この世的な障害であれ、目に見えない力の働きにおいてであれ 、 - - - 汝を、それらから守られるであろうと約束されておられるのである。(262-70)



われわれがこれまで述べたように、根本の原因は、自分自身に出会っているということだ。 つまり、これらはカルマ的なものである。 これらは主の内にあって対処することができるだろう。主は、法則を成就することで因果の法則を取り去り、恩寵の法則を打ち立て給う。 それ故、この実体は、法則であり、真理であり、光である主の腕に依り頼むことが必要だ。(2828-4)


 

さすがに、ケイシーセンターの光田会長は、気が付いておられるようです。


 





 ケイシーのリーディングでは、イエス覚者のなさるお働きについてのみ語っていると思われますが、釈尊は、やがて現れる仏陀は弥勒、マイトレーヤであると説かれました。

 

私たちは、聖書や仏典を見る際に、お一人で現われるのだと思い込んでおりました。研究者もまた、一人だけの出現を想定していました。


しかし彼らは、弟子を育成していたのです。


 その弥勒もまた、この上ない慈悲を施す計画である様です。(5:25位からその偉大な計画の内容が語られます)

 

 

 


 

 これは、途方もない慈悲であり、人類を救い出す目的で地球にやってきた「聖白色同胞団」の計画の成就を意味するものです。


至福千年の後、サタンは解き放たれます。

その時、残りの人類を救済するために、クートフーミ大師がキリストとして期待されていると、神智学徒は聞いています。仏教で言う阿弥陀如来でしょうか。それが、私の調べた「計画」の最終目標です。何千年か後の事になります。


過去に「すべてのはじまり」と題して取り上げた、魂のもつれ込み現象。

自分達の仲間が次々に肉体に捕えられていくことに驚き、仲間の魂たちを救済することを決意して、霊的次元から大挙して地上に降下した一群の魂たち。彼らの壮大な救済計画が実現するのです。

 

また、エメラルド・タブレットが告げる、地上天国である不死の世界というのは、日月神示に示された「半霊半物質」になる世界の説明とも考えられます。

 

 それだけではありません。あのサイババまでが同じことを言っていた事をあなたはご存知でしょうか。



マコトでもって洗濯すれば霊化される、

半霊半物質の世界に移行するのであるから、

半霊半物の肉体とならねばならん、

今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、

今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、

灰になる肉体であってはならん、

原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、

今の物質でつくった何物にも影響されない

新しき生命が生れつあるのぞ。

岩戸開きとはこのことであるぞ、

少し位は人民つらいであろうなれど、

勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組。


 

 

(「日月神示」五十黙示録 第七巻 五葉之巻 第十六帖)




前世のカルマは今世で消費しなければならないものであり、神の恩寵によって救われることはできないと、あなたは言うかもしれません。


しかし私は保証します。そのようにカルマによって苦しむことはいらないと。


激しい苦しみがあなたをさいなむとき、医師はモルヒネを注射します。


そうすると、苦しみはなお身体にあるにもかかわらず、あなたは痛みを感じません。


神の恩寵はモルヒネにたとえられます。


苦しい状態が続いているのに、あなたは苦しみを感じません。


神の恩寵はあなたの受けねばならないカルマの苦しみを取り去ります。


至高の神は信者を完全にカルマの報いから救うことができます。


前世でなした行為は今世で報いを受けなくてはならないというのは間違いです。


神の恩寵はいっさいを取り消しにすることができます。


行く手を妨げるものはありません。


それが全能者の恩寵です。よくおぼえておきなさい。- サティヤ サイババ - 

 

(『英知の太陽』P145.146)

 

 

 [引用元]

 

悔い改める時期があるとしたら、それは今では無いでしょうか。