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峻別不能説(一項全面放棄説)
およそすべての戦争は国際紛争を解決する手段としてなされるもの(侵略戦争と自衛戦争との峻別は困難)であり、憲法9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言はなんらの留保たり得ず、憲法9条第1項の規定によって全ての戦争が禁じられており、憲法9条第2項の「前項の目的を達するため」とは憲法9条第1項全体の指導精神を受けて全ての戦争放棄という目的を実効化するためであるとみる説[注釈 4][123][124]。
一般に本説は第2項は第1項の実効性を確保するために定められたとみるもので、第2項冒頭の「前項の目的」とは憲法9条第1項全体の指導精神を指すとする一項全体動機説と結びつき、第2項前段は戦争の全面的放棄という第1項の目的を達するため一切の戦力の不保持を定めたものとみる(戦力全面不保持説と結びつく)[125]。
峻別不能説では国際紛争を解決する手段でない戦争はありえない(自衛戦争も国際紛争の存在を前提とする)とし、憲法に宣戦等に関する規定がないこと、本条全体の解釈として一切の戦争を放棄しているとみるのであれば「国際紛争を解決する手段としては」の文言も国際法上の用例に拘泥すべきでないこと、憲法第9条第1項ですべての戦争が放棄されたと解さなければ第2項の交戦権の否認との整合性がとれなくなること、憲法前文第2項は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳っていること、多くの戦争が自衛目的という名目で行われてきたという歴史的経緯などをその根拠として挙げる[126][127]。
峻別不能説の法解釈に対しては、平和という国際関係と密接な関連性を有する憲法9条の解釈においては文言についても国際法上の用例を尊重すべきであり、憲法9条の成立の経緯の点からみても妥当ではないとの批判がある[128][129]。具体的には峻別不能説では「国際紛争を解決する手段としては」の文言は何らの留保たり得ないと解釈するため、この文言の規範的意味を希薄化させるものであるとの批判[130]、あるいは、この文字が不必要ということになってしまうとの批判[131](第一項で全ての戦争が放棄されているという結論を導くのであれば「国際紛争を解決する手段としては」という文言がないほうが意味が明瞭になるという奇妙なことになるとの指摘[132])がある。また、憲法9条の成立の経緯の点において、マッカーサーノートでは「紛争解決のための手段としての戦争」と「自己の安全を保持するための手段としての戦争」が別々に定められていることから、「紛争解決のための手段としての戦争」は「自己の安全を保持するための手段としての戦争」とは異なるものを意味すると考えられ、このうち後者の文言のみが立法過程を経て放棄の対象から削られている点が指摘されている[133]。さらに、自衛戦争は他国からの急迫不正の侵略行為(武力攻撃)に対して、これを排除するためにやむを得ずなされる性格のものであり、被侵略国にとっては国際紛争を解決する手段としての戦争とはいえないという指摘[134]があるほか、第1項ですべての戦争が放棄されているとするならば第2項は確認規定にしか過ぎなくなるという指摘[135]がある。比較法の見地からも、イタリア共和国憲法第11条など日本国憲法第9条第1項と同様に「国際紛争を解決する手段としての戦争」の放棄を謳っている憲法の下での法解釈においても自衛戦争は放棄されていないと解釈されていることも本説の問題点として指摘されている[136]。
なお、長沼ナイキ事件第一審判決は「憲法は第九条第一項で自衛戦争、制裁戦争をも含めたいかなる戦争をも放棄したものであるとする立場があるが、もしそうであれば、本項において、とくに「国際紛争を解決する手段として」などと断る必要はなく、また、この文言は、たとえば、一九二八年の不戦条約にもみられるところであり、同条約では、当然に、自衛戦争、制裁戦争を除いたその他の不法な戦争、すなわち、侵略戦争を意味するものと解されており(このことは同条約に関してアメリカの国務長官が各国に宛てた書簡に明記されている。)、以後、国際連盟規約、国際連合憲章の解釈においても、同様の考えを前提としているから、前記した趣旨に解するのが相当と思われる。したがって、本条項では、未だ自衛戦争、制裁戦争までは放棄していない」と本説のような解釈に否定的な立場をとった[137]。
遂行不能説(二項全面放棄説)
憲法9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言は不戦条約など国際法上の用例に従って侵略戦争の放棄を意味すると解釈すべきであるが、憲法9条第2項の「前項の目的を達するため」は憲法9条第1項の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するという文言あるいは憲法9条第1項全体の趣旨を戦力不保持の動機として示したものであり、憲法9条第2項の規定(戦力の不保持・交戦権の否認)によって「戦力」の遂行が困難となるために、結局、すべての戦争が放棄されているとみる説[注釈 5][138][注釈 6]。
本説の解釈は、第9条第1項はまず従来の諸外国の例にならい侵略戦争の放棄を明らかにしたものであり、その上で、憲法は第9条第2項でこの目的を達するための手段として一切の戦力の不保持と交戦権の否認をとったものであり、その結果として事実上すべての戦争が放棄されたものとみる(戦力全面不保持説と結びつく)[139]。
遂行不能説の根拠としては、平和という国際関係と密接な関連性を有する憲法9条の理解にとっては、「国際紛争を解決する手段としては」の文言についても国際法上の用例に従って理解することが有益かつ実定法上望ましいことが挙げられている[140]。また、「前項の目的を達するため」の文言は立法過程において第1項冒頭への文言の追加に呼応して加えられたものであり、第2項の冒頭にも重ねて「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するためとすべきところを重複を避けるために「前項の目的を達するため」と受けたものであるから条件ではなく動機を示したものとみるべきであるという点も根拠として挙げられている[141]。
遂行不能説は憲法学上の多数説となっている[142][143]。
判例では長沼ナイキ事件第一審判決がこの説を採ったものといわれており[144]、「国際紛争を解決する手段として放棄される戦争とは、不法な戦争、つまり侵略戦争を意味する」とし、また、「「前項の目的」とは、第一項を規定するに至った基本精神、つまり同項を定めるに至った目的である「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(する)」という目的を指す」(一項前段動機説)とした上で、「本項(第二項)でいっさいの「戦力」を保持しないとされる以上、軍隊、その他の戦力による自衛戦争、制裁戦争も、事実上おこなうことが不可能となったものである」と判示した[137]。そして、憲法9条と自衛権の関係について後述の非武装自衛権説に立って、「自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない」とし、自衛権の行使方法として外交交渉、警察力による排除、群民蜂起等を挙げ、「自衛権の行使方法が数多くあり、そして、国家がその基本方針としてなにを選択するかは、まったく主権者の決定に委ねられているものであって、このなかにあって日本国民は前来記述のとおり、憲法において全世界に先駆けていっさいの軍事力を放棄して、永久平和主義を国の基本方針として定立したのである」と判示した[137]。
一方で、基本的には本説と同様の法解釈に立ちつつ、憲法9条と自衛権の関係について後述の自衛力論に立って、憲法第9条で放棄の対象となっている「戦力」に至らない程度の必要最小限度の実力(自衛力・防衛力)を保持することは憲法上否定されておらず、国際法上において国家固有の権利として認められている自衛権に基づいてその自衛行動が認められるとする見解(後述の自衛力論)をとる立場もあり、政府見解も基本的に遂行不能説と同様の法解釈に立ちつつ自衛力論をとる立場をとっている[145][143][146]。政府見解は憲法制定時より憲法9条第1項では自衛戦争は放棄されていないが、第2項の戦力不保持と交戦権の否認の結果として全ての戦争が放棄されているとする遂行不能説に立ちつつ[147][148][149]、その後の朝鮮戦争の勃発を契機とする安全保障政策の流れの中で、交戦権を伴う自衛戦争と個別的自衛権に基づく自衛行動とは異なる概念であるとの立場をとり[150][151]、前者については憲法9条第2項(戦力の不保持及び交戦権の否認)により憲法上許容されないが、憲法9条第1項は自衛権を否定していないのであって自衛権行使の裏付けとなる外国からの急迫不正の武力攻撃を排除するための必要最小限度の実力は憲法9条第2項で保持しないとされる「戦力」にはあたらず後者については憲法上許容されていると解釈している[152][151]。これについて平成11年の参議院予算委員会において大森政輔内閣法制局長官(当時)は「個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います」[150]と述べている。また、平成11年の参議院外交防衛委員会において秋山收内閣法制局第一部長(当時)は「自衛戦争の際の交戦権というのも、自衛戦争におけるこのような意味の交戦権というふうに考えています。このような交戦権は、憲法九条二項で認めないものと書かれているところでございます。一方、自衛行動と申しますのは、我が国が憲法九条のもとで許容される自衛権の行使として行う武力の行使をその内容とするものでございまして、これは外国からの急迫不正の武力攻撃に対して、ほかに有効、適切な手段がない場合に、これを排除するために必要最小限の範囲内で行われる実力行使でございます」[151]と述べている。政府見解は憲法9条第2項前段の解釈につき「憲法第9条第2項の「前項の目的を達するため」という言葉は、同条第1項全体の趣旨、すなわち同項では国際紛争を解決する手段としての戦争、武力による威嚇、武力の行使を放棄しているが、自衛権は否定しておらず、自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められているということを受けている」との立場をとっており[153]、第2項の「前項の目的」は第1項全体の趣旨を指すとしつつ、第1項では国際紛争を解決する手段としての戦争、武力による威嚇、武力の行使を放棄しているが、自衛権は否定しておらず、自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められていると解釈している[154]。
以上のように政府見解は基本的には遂行不能説と同様の法解釈を基礎とする法的構成に立っているが[155][156]、「戦力」に至らない程度の必要最小限度の実力(自衛力・防衛力)を保持することは憲法上否定されていないとしており、「自衛権」と「戦力」の理解の点で学説の遂行不能説とは少なからず異なっていると言われている[157][158]。この点については、政府見解が立脚しているはずの戦力全面不保持説と矛盾する結果をもたらすことになっているとの指摘[159]や2項後段の解釈の方法などの点を除けば結論において実質的に後述の限定放棄説(自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)に接近しているという指摘[160]もあるが、政府見解は自衛のための「戦力」については保持しうるとする立場(自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)を公式には採用しておらず[161]、あくまでも遂行不能説と同様の法解釈を基礎としながら「戦力」に至らない程度の実力のみ保持しうるとの法的構成に立脚している[162][163][164](自衛力による自衛権説(自衛力論)に立つ場合の、自衛力と憲法9条第2項後段(交戦権の否認)の規定との関係については後述の「交戦権」の解釈を参照)。
なお、本説に立った上で第2項の「前項の目的」とは第1項後段の「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の部分を指すとする一項後段動機説がとられることもあるが、この説では憲法9条2項の前段ではなく後段の交戦権の否認の規定によってすべての戦争が放棄されると解釈する[165]。
遂行不能説の法解釈に対しては、すべての戦争の放棄という1つの目的のために2つの違った趣旨の規定を置いたことになり、憲法9条は立法技術的にみて拙劣な規定ということになってしまうとの批判がある[166][167]。
限定放棄説(狭義の限定放棄説・侵略戦争放棄説・自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)
憲法9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言は侵略戦争を放棄したものと解すべきで、憲法9条第2項の「前項の目的を達するため」は憲法9条第1項の侵略戦争放棄という目的を達成するための戦力不保持の条件を示したものであるから自衛戦争は許容されているとみる説[注釈 7][168][169]。
本説は第2項の「前項の目的」とは第1項後段の「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の部分を戦力不保持の条件として指すとする一項後段不保持限定説から導かれ[170]、一般には自衛戦争のための「戦力」を保持することは否定されていないとする後述の自衛戦力肯定説(戦力限定不保持説)と結びつく[171]。
限定放棄説では侵略戦争と自衛戦争の区別は可能であるとし、1928年のパリ不戦条約の締結時においても自衛戦争まで放棄するものではないことは締約国の了解するところであったこと、本条の立法上の経緯、特に既述の芦田修正や憲法9条の制定過程において極東委員会が、当時、このような解釈の可能性を認めており、そのために憲法66条2項に文民条項を入れることを強く要求したとされること[44]、また、世界平和を最高の目的とする国際連合においても国連憲章51条において自衛権を認めていることなどを根拠とする[172][173]。この説の法解釈からは自衛戦争について憲法は許容しており、その扱いは立法政策上の問題であるとする[174]。
判例では百里基地訴訟第一審判決がこの説を採ったものといわれており[175]、「わが国は、外部からの不法な侵害に対し、この侵害を阻止、排除する権限を有するものというべき」とし、また、「「前項の目的」とは第一項全体の趣旨を受けて侵略戦争と侵略的な武力による威嚇ないしその行使に供しうる一切の戦力の保持を禁止したものと解するのが相当」とした上で、「わが国が、外部から武力攻撃を受けた場合に、自衛のため必要な限度においてこれを阻止し排除するため自衛権を行使することおよびこの自衛権行使のため有効適切な防衛措置を予め組織、整備することは、憲法前文、第九条に違反するものではない」と判示した[176]。
このほか国民主権の国家における国民は憲法やその前提となる国家の存立について責任を有するとともに、日本国憲法第13条の規定は基本的人権に加えられる国内外からの侵害を排除することを要請すると説く学説もあり[177]、百里基地訴訟第一審判決も「国家統治の根本を定めた憲法は、国としての理念を掲げ、国民の権利を保障し、その実現に努力すべきことを定めており、しかも、憲法前文第二項において、「われらの安全と生存」の「保持」を「決意」していることによっても明らかなように、憲法は、わが国の存立、わが国民の安全と生存を、その前提として当然に予定するところであるから、わが国の主権、国民の基本的人権の保障を全うするためには、これらの権利が侵害されまたは侵害されようとしている場合、これを阻止、排除しなければならないとするのが、憲法の基本的立場であるといわなければならない」と判示している[178]。
限定放棄説の法解釈に対しては、戦力不保持を定めた9条2項の存在理由がなくなるもしくは極めて不明確になるとの批判があり[179]、また、自衛戦争のための「戦力」と侵略戦争のための「戦力」を区別しうるのか、あるいは自衛戦力の保持が可能であるとすれば軍隊の設置や戦争の遂行についての規定が憲法に規定されていて然るべきはずであるといった批判がある[180]。遂行不能説(二項全面放棄説)の立場では憲法9条第1項の段階では自衛戦争は放棄されていないと解釈するが、この遂行不能説(二項全面放棄説)の立場をとる論者からは、自衛のための戦力保持が可能であるとするのであれば、第1項では侵略戦争のみを放棄しているのであるから自衛戦争のための「戦力」を保持しうるのは自明で第2項は全く不必要のはずであり、あえて戦力の不保持について規定する第2項の存在理由が説明できなくなるとの指摘がある[181]。
「自衛戦争」の概念については学説上の混乱が問題点として指摘されている[182]。
国際法(国連憲章)との関係上、限定放棄説において許容される「自衛戦争」とは当事者が法的に平等な地位において戦う闘争(full-blown selfdefence)ではなく、武力攻撃に対する自衛行動(limited selfdefence)にとどまるものであるとの見解がある[183]。このような点から、本説に立った上で、憲法9条第2項前段により「戦力」は保持できないとして後述の自衛戦力肯定説をとらずに、人員・装備の点で「戦力」に至らない程度の「自衛力」を保持することはできるとする後述の自衛力論と結び付けて説く学説もある[184][注釈 8]。ただ、限定放棄説(自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)に対しては文理解釈や憲法の体系的解釈の点で難があるとの指摘があり、政府見解は前述のように交戦権を伴う自衛戦争と個別的自衛権に基づく自衛行動とは概念を異にするとの立場をとりつつ[150][151]、自衛行動のための「戦力」に至らない程度の実力についてのみ保持しうるとしており(後述)[185]、法解釈の構成上は本説(自衛戦争許容説・戦力限定不保持説)ではなく遂行不能説を基礎とする法解釈に立ちつつ後述の自衛力論をとる立場に立っている[143][186][注釈 9]。
なお、「自衛戦争」の概念について、憲法第9条の解釈において従来の論者は「自衛戦争」の中に侵略的自衛戦争と自衛行動の双方を含意して用いてきたが、この二つは交戦法規の適用対象あるいは許容される軍事行動の態様の点で異なるとの指摘がある[187]。一方で「自衛戦争」と「自衛行動」という概念の区別が議論に混乱をもたらしているとする見解もあり、政府見解の「自衛のための戦力」とは異なる「自衛力」また「自衛戦争」とは異なる「自衛権の発動」という理論構成について議論に混乱をもたらしているとする見解もある[188]。

自衛権の問題[編集]自衛権の意義[編集]自衛権(個別的自衛権)とは「外国からの違法な侵害に対して、自国を防衛するために緊急の必要がある場合、それに武力をもって反撃する国際法上の権利」と定義され、国際連合憲章51条ではこの個別的自衛権に加えて集団的自衛権も規定する[189]。この国際連合憲章51条を以下に引用する。

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

自衛権の行使[編集]国際法上、自衛権の行使が正当化されるためには、違法性、必要性、均衡性の要件を満たすことが必要と考えられている[190][191]。

違法性
侵害が急迫または現実のものであって、その行為が違法(不正)なものであること。
必要性
侵害排除という目的を実現するために一定の実力を行使する以外に選択する手段がないこと。
均衡性
自衛のための実力行使は必要な限度で行使され、侵害行為に対して均衡を失わない程度のものであること。
憲法9条と自衛権[編集]憲法9条と自衛権の関係については、次のような説がある[192][注釈 10]。

自衛権放棄説
憲法9条は自衛権を放棄しているとする説[193]。
本説では自衛権が武力の行使を伴うことは不可避であり、日本国憲法の下では自衛権は放棄されているとみる[193]。
本説に対しては、日本も主権国家である以上は自衛権そのものまで放棄しているとみることはできないのではないかとの指摘がある[194]。
ほとんどの侵略的戦争も自衛目的で行われており、自衛権を認めるならばほとんどの侵略行為も正当化されることから、「自衛権」を否定する考えも多い[要出典]。
自衛権留保説
自衛力なき自衛権説(非武装自衛権説)
憲法9条は自衛権を放棄してはいないが、軍事力を伴わない手段に限られるとする説[195]。
本説では国際法上において国家固有の権利として認められている自衛権は放棄されてはいないが、憲法9条第2項により「戦力」や「武力」を用いた自衛権の行使は禁じられているとみる[196]。
判例では長沼ナイキ事件第一審判決がこの説を採ったものといわれる[197]。
本説では軍事力を伴わない手段として、具体的に外交交渉、警察力、群民蜂起などを挙げる[198]。
本説に対しては、外交交渉、警察力、群民蜂起による自衛権の行使という観念は、伝統的な「自衛権」の概念とは異なるものであり、一定の客観的な意味と役割を有しているはずの「自衛権」の固有の意味を失わせ異質化させるものであるとの指摘がある[199]。
自衛力による自衛権説(自衛力肯定説・自衛力論)
憲法9条は自衛権を放棄しておらず「戦力」に至らない程度の実力(自衛力・防衛力)の範囲において自衛権が認められるとする説[200]。
本説では国際法上において国家固有の権利として認められている自衛権は放棄されておらず、その自衛行動をとるために必要とされる「戦力」に至らない程度の実力を保持することは憲法上否定されていないとみる[201]。
政府見解(公定解釈)はこの立場をとっている[202]。判例では砂川事件上告審判決がこの説を採ったのではないかとみる見解がある一方[203]、この事案が駐留米軍に関するものであったことから、日本独自の自衛力を保持することの是非についてまでは明らかとなっていないとみる見解もある[204]。
学説においては本説の根拠として、国際法上において国家固有の権利として認められている自衛権は放棄されておらず、憲法が無防備・無抵抗を定めているとみることは正当でないが、憲法第9条に戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認が定められており、そのほか憲法に宣戦など戦争に関する規定が全くないことから、自衛権の行使は必要最小限度に限られ、その自衛行動をとるために必要とされる「戦力」に至らない程度の実力を保持することは憲法上否定されていないとみる[205]。本説は「戦力」に至らない程度の自衛のための必要最小限度の実力についてのみ保持しうると解釈するものであり、その一定の制約から伝統的な「自衛権」の概念は憲法上維持できないとみる点で自衛戦力許容説とは法理論上は異なる立場となる[206][207]。
本説に対しては自衛権の存在をもって直ちに憲法上の自衛力の保持の容認に繋がるか疑問であるとの指摘[208]や、「自衛力」と「自衛の戦力」との相違が必ずしも明確ではないとの指摘がある[209]。
自衛戦力による自衛権説(自衛戦力肯定説)
憲法9条は自衛戦争のための「戦力」を保持することを否定していないとする説[210]。
本説は上の限定放棄説と結びつく説であり[211]、憲法上、自衛戦争は放棄されておらず、そのための「戦力」を保持することも許容されているとみる[212]。
本説に対しては憲法9条の理解が形式的に過ぎ、戦力不保持について定める第2項前段の解釈の点で問題があるとの指摘がある[213]。
判例において百里基地訴訟第一審判決や長沼ナイキ事件第二審判決ではこのような解釈がとられたが、一方、砂川事件第一審判決ではこのような解釈に否定的な判断がなされた[214][215]。
本説は憲法上、自衛目的のための「戦力」の保持は可能であり、伝統的な「自衛権」の概念が憲法上も維持されるとみる点で上の他の説とは異なる[216][217]。
なお、政府見解(公定解釈)は自衛力による自衛権説に立っており、「「戦力」に至らない程度の必要最小限度の実力」は保持できるが「戦力」は保持できないとしているので自衛戦力肯定説とは異なる[218]。
集団的自衛権[編集]「集団的自衛権」を参照

集団的自衛権とは「他の国家が武力攻撃を受けた場合、これに密接な関係にある国家が被攻撃国を援助し、共同してその防衛にあたる権利」と定義される[219]。国際連合憲章51条に定められている。日本の集団的自衛権について国際法上は、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)第5条(C)が「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」と定め、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(日ソ共同宣言)第3項は「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、それぞれ他方の国が国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有することを確認する。」と定める。

政府見解はわが国は集団的自衛権を国際法上保有しているが、憲法上その行使は許されないという立場をとっており[220]、1981年(昭和56年)の政府答弁書で「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」[221]と述べている。

「戦力」の解釈[編集]「戦力」の内容[編集]憲法9条第2項の「戦力」の内容については、次のような説がある[222][223][224][225][226]。

戦力全面不保持説
憲法9条第2項は一切の「戦力」の保持を禁じているとする説。「戦力」の内容の具体的基準をめぐって以下のような説に分かれる。
潜在的能力説
憲法第9条第2項にいう「戦力」とは戦争に役立つ可能性のある潜在的能力をすべて含むとする説[227]。本条英文「other war potential」などを根拠とする[228][229]。
この説に対しては警察力、重工業施設、港湾施設、航空機や空港・飛行場、航空工学の研究など科学技術、エネルギー資源等までも「戦力」に含まれうることとなり広汎に過ぎ失当であるとの批判がある[230][231][232]。
超警察力説
憲法第9条第2項にいう「戦力」とは警察力を超える程度の実力をいうとする説[233]。この説からは一般に憲法9条第2項にいう「戦力」とは「軍隊」あるいは「軍備」を指すものであるとし、「軍隊」を「外敵の攻撃に対して実力をもって抵抗し、国土を防衛することを目的として設けられる人的および物的手段の組織体」と定義する[234]。
近代戦争遂行能力説
憲法第9条第2項にいう「戦力」とは近代戦争遂行に役立つ程度の装備・編成を備えるものをいうとする説[235]。1952年(昭和27年)に第四次吉田茂内閣によって政府見解として示されたものである[236][237][238]。
超自衛力説
憲法第9条第2項にいう「戦力」とは自衛のための必要最小限度を超える実力をいうとする説[239]。1954年の自衛隊発足に伴って第一次鳩山一郎内閣によって示されたもので[240]、現在の政府見解(公定解釈)の立場である[241]。憲法第9条第1項は自衛権を否定しておらず、その否定されていない自衛権の行使の裏付けとなる自衛のため必要最小限度の実力は憲法第9条第2項にいう「戦力」にはあたらず、それを超えるものが憲法第9条第2項にいう「戦力」であると解釈する[242]。
戦力限定不保持説(自衛戦力肯定説)
憲法第9条第2項は自衛のための「戦力」まで禁ずるものではないとする説[243]。
「戦力」の判断基準[編集]「戦力」にあたるか否かの判断基準については、その実力組織を利用する者の目的という主観的観点から判断すべきとする主観説もあるが、実力組織そのものの性質という客観的観点から判断すべきとする客観説が通説となっている[244]。

不正規兵[編集]義勇隊(義勇兵)、組織的抵抗運動体、群民蜂起といった国際法にいう不正規兵は戦時において自然発生的に生じるものであり、憲法第9条第2項にいう「戦力」にはあたらないとされる[245]。

その他[編集]海上保安庁法には「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」とする規定がある[246]。

「交戦権」の解釈[編集]「交戦権」の内容[編集]憲法9条第2項後段にある「交戦権」の内容については、次のような説がある[247][248]。

広く国家が戦争を行う権利をいうとする説[249]
この説からは憲法9条2項後段は実質的には憲法9条1項と同じことを別の表現を用いて規定したものということになる[250]。なお、現代においては戦争が全面的に違法化されており国家が戦争を行う権利などありえようはずもないとして、本説における交戦権の否認の意味は事実上の戦争の放棄を意味するものとなるとの指摘がある[251]。
この説に対しては、憲法9条2項後段が1項の規定との重複する内容のものとなってしまうとの批判[252]や国際法上の通常の用例に反する解釈であるとの批判[253]がある。
国際法において交戦国に認められている権利の総体をいうとする説[254]
この説からは具体的には船舶の臨検・拿捕、占領地行政等の権利などが「交戦権」に含まれるとする[255]。
この説に対しては「国の交戦権」の字句からみて日本語として無理のある解釈であるとの批判[256]がある。
上の両者をすべて含むとする説[257]
ただし、広く国家が戦争を行う権利をいうとする説でいう交戦権は国際法において交戦国に認められている権利の総体をいうとする説でいう交戦権を包含する関係にあることから[258]、これら両者をすべて含むとするこの説でいう「交戦権」は結論的には広く国家が戦争を行う権利をいうとする説での「交戦権」と重なり合うとみられている[259]。そのため、この説は広く国家が戦争を行う権利をいうとする説と異なる説であるとする独自の存在意義に乏しいとの批判がある[260]。
これらの説のうち「国際法において交戦国に認められている権利」をいうとする説が多数説となっている[261][注釈 11]。判例においても「国際法上の概念として、交戦国が国家として持つ権利」をいうとし(長沼ナイキ事件第一審判決、百里基地訴訟第一審判決)、政府見解も「交戦者として戦時国際法上認められている権利」をいうとしている[262]。

峻別不能説・遂行不能説・限定放棄説との関係[編集]上のように「交戦権」については「広く国家が戦争を行う権利」とみる説と「国際法において交戦国に認められている権利」とみる説がある[263]。

憲法第9条第2項後段の交戦権の否認については、同項前段の「前項の目的を達するため」の文との関係が問題となるが、学説の多くは「前項の目的を達するため」の文は後段の「国の交戦権は、これを認めない」の部分にまでかからないとみている[264]。

限定放棄説では憲法9条第2項前段の「前項の目的を達するため」を侵略戦争放棄という目的を達成するための条件を示したものとみるが、この文が句点によって区切られた憲法9条第2項後段の「国の交戦権は、これを認めない」の文言にまでかからないのではないかという問題を生じる[265][266]。この点については、限定放棄説から、「交戦権」の内容を「国際法において交戦国に認められている権利」と解釈し、憲法9条2項後段の交戦権の否認については、あえて他の国家に対して国際法上の交戦権を主張しない趣旨であるとみる説がある[267]。一方でこのような解釈とは異なり、そのまま「前項の目的を達するため」の文は後段の「国の交戦権は、これを認めない」の部分にまでかかり、交戦権の否認も侵略戦争放棄という目的を達成するための限定的なものとなるとする説もある[268]。この説によれば、憲法第9条第2項後段は、万が一、侵略的な行動を犯した場合にも交戦国の権利を主張できないという趣旨であるとの帰結となり、二重に侵略行動を抑圧するものであるとする[269]。なお、前述のように、政府見解は基本的には遂行不能説と同様の法解釈に立ちつつ「前項の目的を達するため」の文は憲法9条第2項後段の「国の交戦権は、これを認めない」の文にまでかからないとした上で、交戦権は全面的に否認されているが交戦権とは区別される自衛行動権(自衛権の行使として自国に対する急迫不正の武力攻撃を排除するために行われる必要最小限度の実力を行使する権利)については憲法上否認されていないと解釈する[270]。

一般に限定放棄説からは「交戦権」を「広く国家が戦争を行う権利」と解釈すると結局のところ全面放棄となってしまうため、「交戦権」については「国際法において交戦国に認められている権利」と解釈する説とのみ結びつくと考えられている[271]。これに対して、峻別不能説及び遂行不能説からは、「交戦権」について「広く国家が戦争を行う権利」とみる説と「国際法において交戦国に認められている権利」とみる説のいずれの説とも結びつくといわれる[272]。

峻別不能説(一項全面放棄説)に立って、「交戦権」を「国際法において交戦国に認められている権利」とみる説からは、憲法9条2項後段は憲法9条1項の戦争の全面的放棄の裏付けとして国際法上の観点から規定されたものと説明される[273]。また、峻別不能説(一項全面放棄説)に立って「交戦権」を「広く国家が戦争を行う権利」とみる説からは、憲法9条第1項は事実上の戦争を禁じるものであり、第2項は法上の戦争も否認するものであると説明される[274]。

遂行不能説(二項全面放棄説)に立って、「交戦権」を「国際法において交戦国に認められている権利」とみる説からは、憲法9条2項前段は物的な面から、憲法9条2項後段は法的な面から戦争を不可能にする趣旨であると説明される[275]。また、遂行不能説(二項全面放棄説)に立って「交戦権」を「広く国家が戦争を行う権利」とみる説からは、憲法9条2項後段は憲法9条前段の戦力不保持とあわせて一切の戦争が行えなくなったことを示すものと説明される[276]。

なお、「戦力」に至らない程度の実力を「自衛力」あるいは「防衛力」として認め、これについては保持しうるとする自衛力による自衛権説をとる場合の自衛力の行使と交戦権の否認との関係については次節参照。

自衛力・防衛力との関係[編集]憲法9条2項前段によって不保持の対象となっている「戦力」を保持することはできないが、「戦力」に至らない程度の実力(自衛力・防衛力)については保持することが認められるとする「自衛力による自衛権説」に立つ場合、その自衛力の行使と憲法9条2項後段(交戦権の否認)との関係が問題となる。この点について、自衛のための必要最小限度の自衛力の行使の関係においてのみ例外的に交戦権が存在しているとみる見解[277]がある一方、政府見解のように憲法9条2項前段の「前項の目的を達するため」は憲法9条2項後段(交戦権の否認)にはかからないので交戦権は全面的に否認されているが、交戦権とは区別される自衛行動権(自衛権の行使として自国に対する急迫不正の武力攻撃を排除するために行われる必要最小限度の実力を行使する権利)については憲法上否認されていないとみる見解[278]もある。

この点について、昭和44年の参議院予算委員会において高辻正己内閣法制局長官(当時)は「あくまでも憲法の第九条二項が否認をしている交戦権、これは絶対に持てない。しかし、自衛権の行使に伴って生ずる自衛行動、これを有効適切に行なわれるそれぞれの現実具体的な根拠としての自衛行動権、これは交戦権と違って認められないわけではなかろうということを申し上げた趣旨でございますので、不明な点がありましたら、そのように御了解を願いたいと思います」[279]と述べている。

自衛行動の地理的範囲[編集]政府見解では我が国が自衛権の行使として我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することのできる地理的範囲は、必ずしも我が国の領土、領海、領空に限られるものではなく、自衛権の行使に必要な限度内で公海・公空に及ぶとする[280]。

また、武力行使の目的をもって自衛隊を他国の領土、領海、領空に派遣することは、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されないが[281]、わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対して誘導弾等による攻撃が行われた場合に、その攻撃を防ぐのに必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくということは、法理的には自衛の範囲に含まれ可能であるとする[282]。

保有しうる兵器の範囲[編集]政府見解では性能上専ら他国の国土の潰滅的破壊のためにのみ用いられる兵器については、いかなる場合においても、これを保持することが許されないとし、例えばICBM、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母については保有することが許されないとする[283]。

戦時国際法及び国際人道法の適用[編集]交戦権の否認との関係で戦時国際法及び国際人道法の適用が議論されることがあるが、1978年(昭和53年)の衆議院内閣委員会において真田秀夫内閣法制局長官(当時)は「憲法の制約内における実力行使はできるわけでございますから、その実力行使を行うに際して既述されている戦時国際法規は適用があります。たとえば、侵略軍の兵隊を捕虜にした場合にはその捕虜としての扱いをしなければならないというようなことは当然適用があるということでございます」[284]と述べている。また、同委員会において柳井俊二外務省条約局法規課長(当時)は「一九四九年のいわゆるジュネーブ諸条約その他条約がございまして、これはわが国も締約国になっておりますし、これらの条約に規定されましたところのもろもろのルールというものはわが国についても適用があるというふうに考えております」[285]と述べている。さらに、平成2年の国際連合平和協力に関する特別委員会において柳井俊二外務省条約局長(当時)は「我が国が紛争当事国にならない場合におきましては、自衛官もあるいは文民もいわゆる第四条約、これは戦時における文民の保護に関する千九百四十九年のジュネーヴ条約でございますが、この文民の保護に関する条約のもとで保護を受けるということでございまして、この場合におきましては、自衛官の場合もあるいはそれ以外の文官の場合も特に変わりなく人道的な保護を受けるということでございます。(中略)このようなことは実際上は余り考えにくいわけでございますけれども、ある国が我が国をいわば紛争当事国とみなすというようなことを全く理論的に考えました場合におきましては、この自衛官は国際法上軍人とみなされますから捕虜の待遇を受けるわけでございます。この場合におきましては、ヘーグ条約あるいは捕虜の待遇に関する千九百四十九年のジュネーヴ条約の保護を受けます。そして文民の方々は、先ほど挙げましたジュネーブ第四条約、文民の保護に関する条約の保護を受けることになります」と述べている[286]。

憲法改正権との関係[編集]憲法改正無限界説
憲法改正に限界はないとする説からは憲法9条も当然に改正しうるとする[287]。
憲法改正限界説
憲法改正には限界があるが、国民主権原理のみが憲法改正の限界にあたるとし、憲法9条は憲法改正の限界に含まれない(憲法9条第1項の「永久に」に法的意味はなく国家の方針を示した宣言的文言である)とする説[288]
憲法改正には限界があり、憲法9条第1項については憲法改正の限界に含まれるとみる説[289]
憲法改正には限界があり、憲法9条第1項・第2項ともに憲法改正の限界に含まれるとみる説[290]
第9条に関する有権解釈[編集]政府における解釈[編集]政府見解は憲法9条第1項では自衛戦争は放棄されていないが、第2項の戦力不保持と交戦権の否認の結果として全ての戦争が放棄されているとする立場をとりつつ[291]、交戦権を伴う自衛戦争と個別的自衛権に基づく自衛行動とは異なる概念であるとし、このうち個別的自衛権に基づく自衛行動について憲法上許容されているとの解釈をとるに至っている[292][150][151]。

1946年9月、金森徳次郎国務大臣
「第二項は、武力は持つことを禁止して居りますけれども、武力以外の方法に依つて或程度防衞して損害の限度を少くすると云ふ餘地は殘つて居ると思ひます、でありますから、今御尋になりました所は事の情勢に依つて考へなければならぬのでありまして、どうせ戰爭は是は出來ませぬ、第一項に於きましては自衞戰爭を必ずしも禁止して居りませぬ、が今御示になりましたやうに第二項になつて自衞戰爭を行ふべき力を全然奪はれて居りますからして、其の形は出來ませぬ、併し各人が自己を保全すると云ふことは固より可能なことと思ひますから、戰爭以外の方法でのみ防衞する、其の他は御説の通りです」(1946年(昭和21年)9月13日、貴族院帝国憲法改正案特別委員会における高柳賢三議員に対する金森徳次郎国務大臣の答弁)[293]
「第一項では自衞戰爭は出來ることになつて居ります、第二項では出來なくなる、斯う云ふ風に申しました、第九條の第一項では自衞戰爭が出來ないと云ふ規定を含んで居りませぬ、處が第二項へ行きまして自衞戰爭たると何たるとを問はず、戰力は之を持つていけない、又何か事を仕出かしても交戰權は之を認めない、さうすると自衞の目的を以て始めましても交戰權は認められないのですから、本當の戰爭にはなりませぬ、だから結果から言ふと、今一項には入らないが、二項の結果として自衞戰爭はやれないと云ふことになります」(1946年9月13日、貴族院帝国憲法改正案特別委員会における大河内輝耕議員に対する金森徳次郎国務大臣の答弁)[294]
1953年8月、下田武三外務省条約局長
「国家の自衛権を憲法は禁止しておりませんから、自衛行動はとれると思います。ところが自衛のための戦争となりますと、これは別のことでございまして、戦争であれば敵の領土まで行って爆撃してもいいわけであります。ところがそれは自衛行動とは別であって、交戦権が認められて初めて敵の領土奥深く入って敵の首都を爆撃するという権利が発生するわけであります。そういう交戦権というものは認めていないのでありますから、国際法上の戦争と関連して初めて認められる権利は私は行使し得ない、戦争に至らざる自衛行動ならなし得る、そう考えております。」(1953年(昭和28年)8月5日、衆議院外務委員会における下田武三外務省条約局長の答弁)

「戦力」についての政府解釈の変遷[編集]憲法学者からは「戦力」概念について政府見解の変遷が指摘されることがある。憲法制定当初、政府は、憲法は一切の軍備を禁止し、自衛権の発動としての戦争をも放棄したものとしていた。しかし、朝鮮戦争に伴う日本再軍備とともに、自衛のための必要最小限度の実力を保持することは憲法上禁止されておらず、自衛隊は必要最小限度の「実力」であって、憲法で禁止された「戦力」には当たらないとするに至っている。

1946年6月、吉田茂内閣総理大臣
「自衞權に付ての御尋ねであります、戰爭抛棄に關する本案の規定は、直接には自衞權を否定はして居りませぬが、第九條第二項に於て一切の軍備と國の交戰權を認めない結果、自衞權の發動としての戰爭も、又交戰權も抛棄したものであります」(1946年(昭和21年)6月26日、帝国議会衆議院本会議における原夫次郎議員に対する吉田茂首相の答弁)[295]
「戰爭抛棄に關する憲法草案の條項に於きまして、國家正當防衞權に依る戰爭は正當なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります」(1946年6月28日、帝国議会衆議院本会議における野坂参三議員に対する吉田茂首相の答弁)[296]
1950年7月、吉田茂内閣総理大臣
「(警察予備隊の設置)の目的は何か、これは全然治安維持であります。秩序を維持するためであります。その目的以外には何ら出ないのであります。これが、あるいは国連加入の條件であるとか、用意であるとか、あるいは再軍備の目的であるとかいうようなことは、全然含んでおらないのであります。現在の状態において、いかにして現在の日本の治安を維持するかというところに、全然その主要な目的があるのであります。従つて、その性格は軍隊ではないのであります。また軍隊によつていわゆる国際紛争を解決するというのは軍隊の目的としての一つでありますが、この警察予備隊によつて国際紛争を解決する手段とは全然いたさない考であります」(1950年(昭和25年)7月29日、衆議院本会議における佐瀬昌三議員に対する吉田茂首相の答弁)[297]