ある書物が面白く讀めなかつたとき、その原因が
・眞に詰まらぬものだつたからなのか、
・自分に縁がなかつただけなのか、
・面白さが分かつてゐない、書いてあることを理解する能力が足りないのか、
は見極める必要がある。

ルソーで讀んだのは『エミール』と『告白』で^1 取り立てて難しいことは書かれてゐない。で分かつたのかと問はれると、詰まらなかつたのだからお腹では理解できてゐない^2 のだらうと答へるしかない。あれだけ世評の高い書物が面白くないのは私の讀解力に缺けたところがあるに違ひないといふ市場の評價に迎合した判斷だ。

『資本論』における K. マルクスの評言に頷いたので J. S. ミルは讀むに値せずとして敬せずして遠ざけてゐる。
その後繼思想家たる W. ジェームスの『プラグマティズム』を讀んで、功利主義、實利主義の何たるかは半ば分かつたやうな氣になつてゐる。とはいへ『プラグマティズム』讀み終はつた後小馬鹿にしたくなつた (そんなことをいつてゐるから唯一人のニーチェもただ一人のフーコーも産みだせないんだ) といふ次第なので、相當にバイアスのかかつた分り方ではある。

といふやうなことを、9 カ月前に 1-5 章の途中で放り出した『アメリカの民主政治』を 再び手に取つて考へてゐる。

^1『社會契約論』は未讀だ。多分理解に苦しむと思ふ。ご大層な一般意思つて、ただの fétiche、偶像ぢやないのかと。

^2 「「い、いいえ」とソーニャは無邪氣に臆病らしくささやいた。「だけど……言つて、言つてちやうだい。わたしわかるは、腹ん中でわかるは!」と彼女は一心に頼んだ。」(『罪と罰』5-4)