曰く「『岩波仏教辞典』(第二版)によれば、大乗仏教の仏典のみならずパーリ経典の大部分もゴータマ・シッダッタの死後数百年にわたり編纂されたものであることが明らかとなっている。最古の経典もゴータマ・シッダッタの死後100年以内の編纂とみなされているため、近代の文献学上は原始経典さえもゴータマ・シッダッタの言説が明確に記録されているか否か明らかでない。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/大乗非仏説)
私見ではこれは反論になっていない。大竹晋 (2018) は『大乗非仏説をこえて: 大乗仏教は何のためにあるのか』において、「近現代の日本における大乗仏説論 [...] のいずれもが〈成功していない〉ことを確認」(https://www.amazon.co.jp/大乗非仏説をこえて-大乗仏教は何のためにあるのか-大竹晋/dp/4336062692) いるとのことだ。

大乗経典が釈迦牟尼仏の直説でないことが問題となるとしたら、彼の人がある時代ある地方に生きて死んだ一覚者以上の存在、久遠常住の如来* であることが、経典の αὐθεντικός (真正性、信頼性) を保証するものであると考えているからに他なるまい。

でも何か変。釈迦如来が形而上の存在であればどんな形で誰にその教えを説法教化、あるいは、啓示しようが、その αὐθεντικός に瑕疵はないはずだ。紀元前 5 世紀ごろにこの地上に生を受け歴史的にその実在を確認できる個体である釈迦がその肉声で弟子たちに教示した言説でないと具合が悪いとは論理的におかしくはないか (そこはかとなく気持ちは分かるが)。

*「汝等諦かに聴け、如来の秘密・神通の力を。一切世間の天・人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。」(「妙法蓮華経如来寿量品第十六」, https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/6/16.htm))

§

「インド思想史略説」の第2章 原始仏教、第3章 インド仏教の発展(1) の淡々とした説明は平明でした。

(1) 野沢正信, 1997, 「インド思想史略説」, (https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm)