第20章 - 道(Magga-vaggo)[14]
        「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と
        智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
        「一切の形成されたものは苦である」(一切皆苦)と
        智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
        「一切の事物は無我である」(諸法非我)と
        智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。(「法句経」, https://ja.wikipedia.org/wiki/法句経)

これをいきなり読んで分かるひとはいるのだろうか。一切が無常なら、知恵も無常であり、衆生は永劫に無明の闇の中ということにはならないのだろうか。

我とはアートマンの謂いであろうが、アートマンと言い換えてみても理解が深まるわけではない。

・一切はご縁によって生起するので、常住不変の我なるものはない (だからそんなものに拘るな)、
・縁起といい法というものが、あるといえばある; 誰にも見通すことも把握することもかなわぬものなので、ないともいえる、
というのが私の理解、というか無理解。

浄土真宗 慈徳山 得蔵寺のページでは、「諸法無我」を、
「ビジネスの世界やキャリアの中でも「諸法無我」の教えは役立ちます。
特に、変化の激しい業界や職種では、固定的な自我や価値観に囚われず、柔軟に変化に対応することが求められます。
このとき、「諸法無我」の考え方を取り入れることで、変化を恐れず、それをチャンスとして捉えることができます。」(「「諸法無我」とは!? 〜現代の言葉で深い仏教の教えを解説〜」, https://tokuzoji.or.jp/shohoumuga/)
みたいに敷衍している。
衆生を得度させることがお寺さんの存在意義なので、あの手この手で説教するのも分かるけど、世間からもう少し超然としていてもよさそうな、とは余計なお節介か。