キリストであるイエスはすべての人の罪を贖うために十字架に架けられた。すべての人の罪とは個々人の罪の合計ではない。個別に主体である (個別以外の様態では主体ではありえない) 私や (そして、あなたの) 罪を贖うためだった。では、私の罪は神の子を生贄として捧げなければ贖えないほど重いのか。

キリスト者からすればそうなのかもしれない。罪が神に背くことだとしたら、神に反逆した天使長と同じ罪をノンクリスチャンは犯している。キリストを見捨てて逃げ去った使徒たち、キリストを磔刑に処した (それをよしとした) パウロもまた、同等の罪を犯している。とはいえ、これらの宗教的天才たちが己が罪をどれだけ過大評価しようが、それは "境界性パーソナリティ障害" の一症例とみなされてよい領域である。ユダヤ教徒ではない (神と契約を結んだイスラエルの民に属さない) ギリシア人が、お前は大罪人だといわれて、はいそうですと答えられるものだろうか。我が国、命を金銭に換算する (命をカネで贖う) ことが経済の営みとして組み込まれてある我が国のキリスト者はこの無限大の罪というハードルをどうやって跳び越えたのだろう。

C'est un grand mystère.



「イエスの死は、どうして私たちの罪のゆるしとなるのですか。人類の「贖い」のためだった、という話も聞きますが。何のことか、よくわかりません。


罪のゆるしとなる、と言うより、罪によって傷ついた世界を癒す、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。つまり、キリスト教の信仰は、イエスの死が神の救いのわざだった、と理解するところに始まります。イエスの死を通じて、罪の力に縛られた人類の悲惨を、神御自身が担ってくださった、という理解です。だから、「贖い」という古めかしい言葉も、正しく理解すれば、真実をうがっていますね。」(『カトリックQ&A  https://sophia-catholicjesuit.jp/qa/16/』)
 

わかりやすいかもしれない、けれど衝撃力に欠けるかも。(世界? Après moi, le déluge.)