・私はキリスト信徒ではない、
・バルトの著作は『ローマ書講解』を40 年以上前に一度読んだだけで、しかも、何をいっているのかさっぱりわからなかった、
の二点を前置いておく。

「バルトは、誤りだらけの人間のことばに過ぎない聖書が、神との出会いの契機において、神のことばと見なされるときがあるとし」(ja.wikipedia) という言葉が一人歩きしているようにみえる。
聖書の無誤性を奉ずる人々は、バルトは自由主義神学者だ、の一言で切って捨てる (そういうひともいる)。

本当にこんなことをいっているんですか、典拠は? その文脈は? でググってもはかばかしいものが出てこない。

youtube の動画『カール・バルトの聖書論 これを知らずにバルトを語るな (https://www.youtube.com/watch?v=XXGqbEWGZTs)』が、まともに答えようと努力してくれているので、画像を切り取って文字起こしした。それなりに時間を要したので、貧乏人の性で、貼りつけておく。(項目 4 はもともと欠番。)

フリップボードには表示されず、語られただけの前振りを以下に記載しておく:
「よくバルトはですね、聖書は神の言葉である、というふうに考えたんぢゃなくて、バルトは神の言葉になる、といったんだと。だからバルトはリベラルだというふうにいう方がおられるんですけど、じつはそれ、どこに書いてあるかっていうのはですね。聖書論の 19 節の中のですね、冒頭の部分に太字で 4 行くらいの文章が書いてあります。それをちょっと読んでみますけれども、「神の言葉は聖書の中での神ご自身である。なぜならば、神は主として昔モーセおよび預言者たちに、福音記者および使徒たちに、語られたのち神はそれらのものによって書かれた言葉を通して   同じ一人の主として教会に語りかけていたからである。聖書はそれが教会に対して聖霊を通し、神の啓示についての証言となったし、神の啓示についての証言となるであろう間に聖であり神の言葉である」と書いてあって」

<quote>
『教会教義学』 
神の言葉 II/3 聖書 
十九節 教会のための神の言葉 
一 神の啓示についての証言としての聖書 
二 神の言葉としての聖書 

1 聖書とは神の啓示についての証言
・聖書は使徒と預言者が書いた人間の言葉だが、これらは啓示 (キリスト) を証言している
→啓示と聖書は区別される。
・しかし、この証言の言葉の中で私たちが神と出会うという点で聖書は啓示である。
→聖書と啓示は区別されない。
つまり、「相違性 (書物性)」と「同一性 (聖性)」の両方が大事という立場。

2 歴史的・比評的研究への立場
・聖書の人間的な性格 (書物としての) からして、歴史的・比評的研究により読むことは受け入れられる。
・しかし同時に、その言葉が人問的な言葉であっても、特定の状況において意図をもって語りかけている言葉である以上、その言葉がなにを伝えようとしているのか、その内容を理解しない読み方は無意味。
→聖書の歴史的文脈を理解する上では大切でも、聖書の当時の歴史ばかりに目を向けるなら意味がない。

3 聖書が「正典」である理由
・教会による確認と判断
・キリスト (啓示) 以前と以後を証言する旧約と新約
・一回的なキリストの啓示への直接性 (地上を生きたイエス・キリストと直接出会っているかどうか) 
・聖書以外、この世に「啓示」への証言はない。
・聖書が自らを通して神の働きを示し、聖書か他の書物と違うことを明らかにする。

5 逐語霊感説について
・「聖霊の働き」が言葉と切り離すことがてきない以上、聖書のすべての言葉が一字一句霊感を受けているという意味で「逐語霊感」は正しい。しかし、その霊感が機械的に「保たれたまま」である、という理解は仮現論的てあり、かえって人問が操作可能のものとしてしまう。
・読み手てある私たちが聖霊を受けること (聖書の内的証示) により聖書を理解てきる、ということが霊感説として重要。

6 逐語霊感説について (続き) 
・教会史的には、確実性を求めるあまり聖書の書物としての霊感説は硬化の方向をたどり、「紙の教皇」になってしまった。
・神の自由な恵み、聖霊の秘儀なしの「紙の教皇」は、人間の手に握られ操作作可能になり、他の宗教の正典と似たものになってしまう。
・一方で、その反動として自由主義神学のように聖書の「書物」としての側面ばかりを強調する流れが生じ、混乱を生んでいった。

7 「聖書は神の言葉である」
・神の言葉の現臨を聖書の書物と同一ではなく、固有の性格としてみなすことはできない。
・しかし、誤りうる人間の言葉 (聖書) を通して、神がお語りになる、という出来事が奇蹟として起こる。
・それは、イエス・キリストにおいて起こった神の行為が、聖書を聴くなかで現在となること。

8 「聖書は神の言葉である」(続き) 
・…ただ単に、かつてエルサレムとサマリアで、口ーマ人やコリント人たちに向かって語ったところの人問としてばかりでなく、彼らのその当時の状況及び行動の具体性全体の中て今日ここで、またわれわれに向かって語るところの人間として、彼らの、書かれた言葉の中で、われわれの耳および目の前で蘇って来るといった仕方で確認し、更新する間に (神の言葉葉が決断し、そのような出来事の中で自分自身を実証する) (145p六以降)

9 「聖書は神の言葉である」(続き2)
・…われわれは、この証言がわれわれに対しても、贈り与えられることを祈ることができるし、祈るべきである。しかしあの出来事が実際に生起し、したがって聖書のこの証言がわれわれに対しても贈り与えられるということは、一まさにそれだからこそそこここで、祈りが最後の言葉でなけれはならないのてあるが一われわれが自由にできることではなく、ただ神のみ力のうちにあることである。(146p)

10 「聖書が神の言葉となる」とは?
・聖書において語られている神の御言葉と御業か、聖霊の働きによって今ここで現在起こっている出来事として受けとめることができる、ということ。
・聖書は神の言葉「である」ことをバルトは否定していない。「である」がキリスト論的とするなら、「となる」とは、聖霊論的な表現。バルトは両者の真理契機を受けとめようとしている。

11 バルト神学について
・近代自由主義神学・フロテスタント正統主義神学・カトリツク神学の三者が行かなかった細い道をバルトは行こうとしている。非常に柔軟なグラデーションに富む思考法をするところがあるため、安易に「バルト神学は~だ」と断定することは誤解や偏見を生む。
・三位一体の神に信仰の確実さ・保証・根拠を求めるべきで、神以外のところに求めるのはダメ、救いはキリストにしかない、という軸は神学的に一貫している。
</quote>

バルトは聖書の自己参照性を否定していない; 聖書の人間的性格を否定することは、神の子であると同時に人の子であるキリストの人の子の側面を欠落させることに相似する; そのような敷衍が、動画においてはなされていると、理解した。