★シークレットネタの超上級記事を、気分で一般公開しておきます。


★約4,000字の長文ですが、気合いでついて来て下さい。


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コーチングは「縁起」の視点で読み解くと、釈迦の悟りと本質的に同じであることが分かります。


僕自身、コーチングは縁起情報の更新と位置付けているところもあるので、今回は、釈迦の悟りを軽く復習した上で、縁起の中でコーチングを理解するという境地まで皆さんをお連れします。



釈迦の悟りとは、皆さんご存知の通り、大乗的に言えば「空」、上座部的に言えば「縁起」となります。


釈迦は、この世(情報空間)は関係性から成り立っていると見抜きました。


確たる存在が初めにあって関係性が定義されるのではなく、関係性が存在を定義する。


それが縁起です。



大乗仏教では、この縁起の思想に空なる視点を組み込みました。


利他と実践に重きをおいた大乗仏教は、龍樹の登場により「大乗の空」を理論的に獲得したというわけです。


空っぽで何もなく、虚無的と解釈されがちな空を、「全てを包摂する空」とすることで、釈迦の悟りの理解度を大幅に更新させることに成功しました。



例えば目の前にコップがあるとします。


そのコップがそこに存在するためには、膨大な情報によるサポートが必要です。


コップの材料を集めた人、形作る人、運ぶ人などの人的サポートは言うまでもなく、


コップが宙に浮かないための重力、材料として必要だった環境資源など、人力を超えた自然的なサポートまで含まれます。


まぁ簡単に言えば、コップ一つそこに存在するためには、全宇宙による縁起的サポートがなければならないということです。


す〜ごい話になってしまいましたが、これが大乗の空が言わんとするところとなります。



全ては縁起で繋がっていて、

縁起で繋がっていないものはない、


常識的に考えて、縁起で繋がっていないと思わざるを得ないとしても、すべての情報は潜在的に繋がっています。


これが真理としての縁起の威力です。



ちなみにここでは「常識的」というのがキーワードです。


皆さんが常識として受け入れている知識や現象は、社会構成員としてのブリーフシステムを平均化した情報の現れ、数学的に言えば「最小公倍数」程度のものです。


情報空間の隅っこの方に存在するちっぽけな情報場の一つが常識となります。


ようは、常識が全てではない、ということです。



時には、釈迦の悟り、縁起や空は、常識を大きく逸脱しているように思えるかもしれません。


しかし僕の経験として、釈迦側の方が見方として正しく、有効な知識であることが往々にしてありますので、常識にぶつかっても、余裕で乗り越える気概をぜひ、お持ちになっておくと良いと思います。



そして釈迦の悟りに関しては、もう一つあります。


それは、「自我は空」という超発見です。



自我が空であるという主張は、苫米地博士も僕も幾度と無く口にしていることなので、今更感は否めませんが、ここで認識を新たにしておきましょう。



まず認知科学の観点から、自我とは「重要性関数」と定義することができます。


この世に存在する全情報を、自分にとって重要なものから順に並び替える関数、それが重要性関数であり、自我の定義となります。



例えば人は、自己紹介する時、自分以外の情報を上手に並び替えることにより、自分という存在を表現しようとします。


紹介する情報の中で一番最初の情報が自分にとって最重要であり、段々と重要度は下がっていきます。



「東京出身です」が最初に来る人がいれば、


「ウィスキーが好きです」といきなり趣味を提示する人もいます。


ある人にとっては「東京都」という位置情報が重要であり、ある人にとっては位置情報より「ウィスキー」という趣味情報が重要な場合もあるということです。


こうした重要性の高低を、全情報に対して付していく機能(=関数、Function)、それが自我となります。



そして私たちは誰一人として同じように、同じやり方で、情報に重み付けをしていくことはありません。


一卵性双生児の双子ちゃんであっても、趣味嗜好が全く同じということはありえない。


必ず違いが出てきます。


私たち一人一人はそれぞれ違った機能を持ち、それが自我の違いとして表に現れているからです。



さて、そんな機能を持つ自我が「空」であるとは、一体どういうことを意味するのでしょうか?


自我が空であるとは、

自我が無いわけではありません。


そうではなく、自我はちゃんと有ります。


ちゃんと有るのですが、肝心なことは、


「どう有るのか」


という“”在り方“”に集約されます。



自我が空であるとは、実は、自我は「固定的ではない」ということを意味しています。


自我が重要性関数として全情報に重み付けをしたとして、その重み付けが永遠に、固定的に保存されることはないということです。


重要性は、必ず変わります。


というか今この瞬間にも揺れ動き、重要性の順番は並び替えられています。



分かりやすいところでは、お腹が空いた時、人は「食べ物情報」の重要度を上げています。


逆に、満腹過ぎる時は、贅沢ですが「食べ物など見たくない」ということで、重要度はガクッと下がります。


それでもまたお腹が空くと、重要度がスンっと上がって、また食べ物を口にすることとなります。



このように重要性は時と場合に応じて瞬間瞬間にダイナミックに変動し、絶妙なバランスを取りながら、私たちの日々を支えてくれているのです。



重要性は変動するものなので、固定的で絶対的な「自分」というものは存在し得ません。


存在すると思っていたら、それは幻想であり、迷いです。


諸行無常に流転的、それが自我の実相です。



以上が釈迦の悟った内容の概要となりますが、本題はここからです。


以下、悟りの風景について、コーチングと交えて解説していきます。



釈迦の悟った内容と、悟った釈迦が見た風景は、違います。


釈迦が悟った内容は、自我は空で関係性が全て、この世は自分の心が生み出した情報で成り立っているという縁起的世界観です。


もちろんこうした釈迦の発見の一端を知るだけでも圧倒的に視野は広がりますが、その発見の跡を辿っているだけでは、少々物足りません。


より重要なことは、釈迦が見ていた悟りの風景を、私たち自身も体験することです。


そしてその体験が、コーチングに活きてきます。



それでは悟りの風景とはどのようなものなのか。


結論からいうと、「全てが見えている状態」


これが悟りの境地です。



先ほど自我とは重要性関数であると書きました。


自分が重要だと思うものは自分の近くに置き、そうでないものは遠くに追いやるというように、情報を並べ替える関数が、自我です。


これが自我の機能になるわけですが、この機能によって引き起こされる弊害も当然あります。


スコトーマの発生がその最たるものでしょう。



結局人は、自分が見たいと思っているもの、自分が重要だと考えているものしか、認識できない生き物です。


そのため自我を有し、情報に重み付けを行っている限り、認識できる情報と認識できない情報とに、全情報を分けてしまうことになります。


そうすると、自分にとって重要では無い情報は認識に上がらなくなり、見える世界がどんどん縮小されてしまいます。


これが、自我を空と悟らない人の宿命です。



しかし、釈迦は人としての宿命を克服しました。


自我が空であると悟り、全ての情報を、同様に価値あるものして認識したのが、釈迦です。


重要性関数としての機能をフル活用し、全情報を等しく重要であるとしたのです。



悟りの風景とは、こういうことです。


即ちスコトーマが消え、宇宙に存在する全ての情報が見えている状態になった、ということですね。


悟りの境地は、全てが見えているから澄んでいるのです。



悟った時の釈迦には、全宇宙のゲシュタルトが降りてきていました。


全ての情報が縁起的に関わりをもち、宇宙サイズの大規模情報ネットワークを形成しているという事実を得る、


ここまで瞑想で辿り着き、結果として悟ってしまったというのだから、やはり釈迦は凄いです。(流石、僕の尊敬する人物の1人です)



このように見ていくと、釈迦の悟りとは、技術的には、スコトーマを外し全てが見える状態にマインドを更新していく”“知の体系”“、


と結論付けることができると思われます。


そしてそれは、苫米地博士が説いてきたコーチングの方法論とも重なるところが、少なからずあります。



人は誰しも成長過程において、無数の存在と縁起を結ぶことで、自我というものの厚みを増していきます。


つまり人の現状は、縁起の往来と集積により作られ、維持されるということです。


現状は、縁起の結果として皆さんの目の前にあるのです。



だから現状を変えるには、縁起を変えるしかないのです。


そのために様々な技術、方法論が発見されてきました。


遠隔気功、催眠術、脱洗脳、古武術、情報場の書き換え、密教全般、etc..


その他諸々の書き換え手法は全て、本質的には「縁起の書き換え」を実践しているということになります。



もちろんコーチングもその一つです。


少なくともコーチングは縁起の書き換えと、僕の目には映ります。


なぜか?


それはコーチという存在そのものが、一つの巨大な縁起として機能してくれるからです。



クライアントはコーチに出会い、コーチが内に有する巨大な縁起に触れることにより、新しい縁起ネットワークを構築することができるようになります。


言い換えると、コーチという縁起を介することで、現状の内側から外側へと抜けるルートが見えるようになるということです。



コーチはクライアントにとって、現状の外側、即ち全くもって新しい存在です。


そんな人と出会うのがコーチングです。



コーチと出会い、今まで縁起として取り入れてこなかった情報が自分の中に入ってくるようになり、現状は揺らぎますし、重要性の関数も書き換わります。


その結果、スコトーマが外れ、これまで見えてこなかった世界が認識できるようになるのです。



であるのならば、

コーチングと悟りは同じものです。


縁起という情報に雁字搦めにされ縛られた存在を、新しい縁起の元で解放する


これが縁起宇宙の中で理解するコーチングであり、言葉を変えれば「悟り」となります。



ということで、かなり上級記事になりましたが、

何度も読んで身体に落とし込んでみて下さい。


今度、正式にコーチングセッションも募集しようかと画策中です。


全縁起情報を書き換えます(^^)