ア・プリオリという言葉は、カントが『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft)の中で用いた概念で、「これがないと経験が始まらないもの」という意味で使われました。

例えば空間と時間。

物理次元にものが存在するためには、モノが占有する空間がなければなりません。

時間がなければ静止したままで、何も始まりません。

カントはこれを説明するために「ア・プリオリ」という言葉を使いましたが、僕たちは彼の意図した意味を継承しつつ、いろんな場面でアプリオリという言葉を発しています😁

特に苫米地博士の流れを汲む現代版気功、情報空間論をベースにした気功では、アプリオリはとても重要な概念です。

僕のいうア・プリオリとは、「この世には永遠不変がある」という思想を意味していて、縁起に代表される仏教哲学とは真逆の思想になります。

縁起において全存在は、他の存在との関係性があって初めて存在すると理解されています。

また、その関係性も流動的であって固定的でなく、瞬間瞬間に揺れ動いているものであるとされています。

対して「ア・プリオリ」の思想では、聖書のGODのように、他の何者にもよらず、絶対的で永遠普遍の存在があるとします。

また、関係性はガッチリ固定的で、一度決まれば、もう二度と変わることのないものと説かれてきました。

以上が簡単ですが、東洋哲学と西洋哲学のサマリーになります。

もちろんこうした存在論の違いは僕たちの無意識の奥深くに浸透していて、知らず知らずの内に行動なり思考なりを方向づけています。

特に、外国人に色々レクチャーしている僕からすると、「ア・プリオリ」の名残は西洋人の頑固さによく現れていると思います(笑)

体感としては、他人の意見は聞くけど、自分の信念は絶対に曲げない、そんな硬さがどことなく感じられると思います。

簡単に言えば、儒教思想に染まった頑固オヤジみたいな感じです🥴


しかし、僕ら東洋人、日本人、そして気功を教えている身からすれば、「ア・プリオリなどウソ」と、当たり前の感覚として受け入れることができると思います😁

なぜなら、どんなに頑固なオヤジでも、周りの状況が変われば、頑固でなくなることがあるからです。

例えば、コロナで「俺は一歩も外に出ない、ゼッタイ😤」と決めていたとしても、家で火事🔥が起これば、外に出ると思います(笑)

同じように、どんなに固く守ると誓った信条、信念があったとしても、周囲との関係性や状況が変われば、コロッと態度を変えてしまうことがあるはずです。(それがヒトです)

なぜなら、この世は流動的な縁起で成り立っているからです。

なので、たとえ「変われないな、自分🥺」と悲しんでいる人がいても全然大丈夫ということです^^

変われる、というか、多くの人は変化が見えていないだけで、変わっているのが基本です。

そして、変化に気づかせてあげる、もしくは変化を促してあげることが、僕らのミッションの1つ、そのように考えています。

全ては流動的、瞬間瞬間に変化し続けていて、「ア・プリオリ」の出る幕はありません。

これが縁起の思想というものです😁🌺