開業した信治郎が扱ったのはやはり洋酒だった。


苦労の末、日本人好みの味の「赤玉ポートワイン」を開発し、最初はなかなか受け入れてもらえなかったが、精力的に営業に歩き、広告に力を入れ、努力を惜しまないうちにだんだんと店の主力商品となり、長い間売上を支えた。


信治郎の店は外国人居留地から贔屓にしてもらい、順調に店を大きくし、丁稚を雇い、大阪商人達からも一目置かれるようになっていった。


そこで信治郎は一世一代の大きな決断をする。
スコットランド以外ではできたことのないウイスキーを日本で作ろうと考えたのだ。
誰一人、従業員すら誰も賛成しない中で信治郎は突き進み、竹鶴政孝という強い味方を引き入れ、莫大な借金を背負って山崎の地でウイスキー造りを始める。

忠告されていたとおり、ウイスキーが人々に受け入れられるまでは10年以上もかかり、その間会社はかなり経営が苦しかったし、
その上戦争で製造すら危うい時期もあったが、長い年月の末、ようやく信治郎のウイスキーは日の目を見たのだった。
そして長年の悲願であったビール造りを再開することもできた。
会社もサントリーと名を変え、日本を代表する大企業にまで成長したのだ。


こういった物語では、私はやっぱり下剋上の時期が面白いと感じる。

信治郎はあまりにもパワフルで、休む間もなく走り続けた人生だったと思う。
昼間は仕事をして夜は人のやっていない努力をするというモットーを実践して「24時間戦えますか」を地でいく生活。
今「ワークライフバランス」などと言っているのとは正反対だが、このパワーがなければ新事業で既存シェアに食い込むことはできなかったのだろう。
現代とどちらがいいかなどと単純比較することはできないと思うが、少なくとも当時の人の力強さや生きる力のようなものを感じるところだ。

また決めたらすぐ行動する人で、取りかかりが早い。それに、莫大なお金がかかることにも腰が引けず、「誰もやっていないからこそ勝機がある」と考える。
その決断力は、私だったら到底真似できない。
やはり商売人として傑出した人物だったんだなあと畏敬の念を覚える。
私も自分を振り返り、せめてメールの返しぐらいは早くしようと思ったのだった。(小さい…)

信治郎は従業員を家族だと大事にする人だったから、無茶な決断をして店が苦しくなっても「大将がやれると信じてるんやから間違いない」と、従業員がついていった。

従業員を家族のように、というのも、現代の風潮とは違うだろうが、どちらがいいと比べられるものでもないだろう。
あくまで社会は男性主体でもあったし、現代の個人主義的風潮に慣れている目には、そのような濃い付き合いはしんどくも思えるが、ともかく「昭和〜平成初期ってこんな感じだったんだなあ」と時代の流れを感じさせるところではあった。

今はそういう方法はなじまないだろうし、従業員との結束を図るためにどういう方法にシフトしたんだろうか、興味がある。

今のサントリーはもう個人の商店ではないが、将来を見据え、人々の幸せに貢献できると信じるものを売りたいという1人の男の熱意が脈々と受け継がれていることを感じた。
思いは時代を越えると言えそうだ。