一ミリも頭を使わないで、まったくの世間話をする。以前は何の意味もない行為だと蔑んでいたけれども、最近は妙に板についてきた。それが思っていたより悪くないことであるのもわかってきた。
 
 
            津村記久子 『つまらない住宅地のすべての家』 より
 
 
 
 
かつてその地域に住んでいた女性が横領の罪で服役中に脱走するという事件をきっかけに、住宅地の一角にある10軒ほどの家に住む人たちが関わり合うようになり、じわりじわりとそれぞれが変化していく話。
ピックアップしたいところは他にもたくさんあったけれど、何気ないこの部分を記したくなった。
 
 
 
親の家を出て自分の所帯を持ってから、いくつかの場所で住んだけれど、それぞれの近所の人たちと「一ミリも頭を使わないでまったくの世間話」をしたこと、あっただろうか。
おそらく、ない。
 
 
回覧板を回したり、用件を伝えたり、それ以上の話に及んでもいつも切り上げるタイミングを図っていたような気がする。
この人ともっと話がしたい、深く付き合いたいと思うご近所さんに出会わなかったというのもあるし、ほかに全く頭を使わずに話せる相手がいたというのもある。
 
 
 
この「世間話も悪くない」と言っているのは若い男性で、直前まで幼い女の子を誘拐拉致する計画を立てていた。そんな時、近所の人たちで脱走犯がこの地域に逃げて来ないか交代で見張りをしようということになって、見張りに邪魔になりそうな隣の老夫婦の植栽を刈ったり、作ってもらったおかずを食べたり、見張りの夜にトランプをしたり、そんなことをしているうちに今まで全く関わっていなかった人たちと「普通に話をする」ようになる。近所の人たちと関わることで男性の中の火種がだんだんと小さくなりやがて消えていく。
 
 
 
一軒の、しかも高齢夫婦の2階を借りて一晩中見張りをしようという提案、それに渋々ながらも応じる人たち、小学生が親の代わりにその見張りに来たり、ちょっと現実的でないところもあるし、それぞれ少しずつ「ヘン」な人たちだとは思うのだけど。
 
 
でも人には、家族には、みな事情があり、少しヘンな普通の人、普通そうで少しヘンな人。ほとんどの人はそうなのかもしれない。
 
 
 
今は近所付き合いもできるだけあっさりとしたものが望まれる時代かと思う。
でも、深入りはしない、家に入り浸らない、それでいて、会えば一ミリも頭を使わずに世間話ができる、助けを必要としていたら手を差し伸べる、そんなご近所さんっていいなと思う。
そんなご近所さんを作れたらいいなと思わせる小説だった。
 
 
 
 
 
 
 
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