――― まともじゃない人にいてもらってもね、困っちゃうから。わかるでしょ?

 まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいる人の生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。だけど誰もが、昨日から見た対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。

 自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。

 

 

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 まとも側の岸にいたいのならば、多数決で勝ち続けなければならない。そうじゃないと、お前はまともじゃないのかと覗き込まれ、排除されてしまう。

 昨日までの自分のような誰かに。

 ドミノが倒れていく。

 みんな本当は、気づいているのではないだろうか。

 自分はまともである、正解であると思える唯一の依り所が”多数派でいる”ということの矛盾に。

三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。

 

 

           朝井リョウ 『正欲』 より

 

 

 

 

とても大きなテーマで、今すぐ山が動くことはなくても、誰もが(自分がまともで普通だと、一ミリの疑いもなく信じている人以外)心の中のどこかに持ってる気持ち、疑問や叫びであり、それをちゃんと言葉にしてくれている。

いつか目に見えて山が動くとき(動くだろう、きっと)の、何か大きな力になる小説だと思う。

 

 

昭和30年代生まれの私が振り返れば、マイノリティに対する考え方や認知のされ方は大きく変わってきたと感じる。

この小説では、たとえば同性愛というマイノリティは、マイノリティの中では十分にマジョリティの位置づけで、もっともっと少数派、もしかすると世界で自分一人かもしれない、性的興奮の対象がそれくらい希少な人たちのことが描かれている。

 

 

ステージの違う話になるかと思うが、自分の想像力がより働くことで考える。

自分の持病の一つにパニック障害があるが、発症当時これは「この世で自分ひとりの非常に奇妙な、苦しい状態」だと思った。

名前のついているような、他の人もなっているような、そんな病気だとは全く思っていなかった。

 

 

ネットが暮らしに浸透する頃になって、やっとそれが立派に名前のある病気、障害、症候群で、日本中に世界中に同じような人たちがたくさんいるとわかって、涙が出るほどうれしかった。たぶんその時点で半分は治ったと思う。それくらいそこまでが孤独だった。

そしてネットのありがたさ、いろんな意味で「繋がる」ことの一端を知った。

 

 

病気とわかり、医師からも診断された頃には、自分はかなり軽症の方であることもわかった。

でも発症から30年以上経った今も完治はしていない。安定剤の頓服はいつも持ち歩いている。

 

 

この10年くらいは芸能人や作家や、いろんな有名な人がなって認知度が上がり、自分もそうだと言いやすくなったが、当時は精神安定剤が処方されるような病気のこと、特に仕事関係には言えなかった。苦しみながらも穴をあけずに仕事ができたくらい軽かったからできたのだが。

今はパニック障害についての理解も少し進んできている気がするけれど、でももし自分がなっていなくてパニックの情報だけを与えられたとしても、その何分の一さえ想像も理解もできなかったと思う。

 

 

そんなふうに、理解されない苦しみは誰にでもあると思う。

ましてや、勇気を振り絞って説明しても「そんなことはあり得ない」と言われるようなものならば、その苦しみは計り知れないだろう。

 

 

病気、傾向、トラウマ、様々な癖、ジェンダー、外見がもたらすもの、自分以外の家族がもつもの、才能、遺伝子、得手不得手、自分がまともで普通であるかの不安・・・・・

賞賛を得られるものから犯罪になるもの、その近くにあるもの、まぎらわしいもの。

多様性といっても簡単に分けたり束ねたりできない。

 

 

それでも知ること、想像すること、理解に努めること。

それすら拒み、遮断しては、到底山は動かないだろう。

 

 

すごい小説だった。

 

 

 

 

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