6-- 「三途の川から」 1156字 4-16-2013
「もうこの人は死んでいる」と1人の医者に宣告され、もう一人の医者には「あと2時間しか持たない」と言われた時、私は三途の川の川岸に立ち、天国で勢ぞろいしたウヤフジ達と対面し、2日間の天国旅行も経験したフリムン徳さんには、人生は旅であったような感じがする。
南の小島、喜界島を15歳に出て、大阪17年、南米パラグアイへ移民してジャングルで1年半、ロスアンジェルス12年、シアトル5年、南サンフランシスコ1年、モントレーの山奥17 年と、50以上の職業を変えながら、移り住み、69年の人生を生きてきた。
この「モントレーの山奥から」はフリムン徳さんの心の叫びである。
59歳で身体障害者になり、ベッドの上で心の底から叫けびながら、したためたエッセイ集である。
やればできる、諦めたら、アカンネン。
大阪で、サラリーマン、絨毯カーテン家具や、夜逃げの運送や、叩き売り、おでんや、パラグアイで農業、ロス、シアトル、南サンフランシスコで大工さん、ここモントレーの山奥ブラッドレーのベッドの上で、文章の書き方をを見よう見まねで覚えた。
私はどの職業でも「これは、絶対できると思い込み」、諦めずに頑張れば、努力すれば、見よう見まねで覚えた職業で飯が食えた、生きられた。
多くの人は生きるのは難しい、難しいと言うが、生きるということはそう難しい事ばかりではではないと思いもする。
頑張るだけではない、深く、深く、より深く考えながら頑張ったら、必ず、いい知恵が湧く、チャンスが来る。
私の頑張り、努力を見た人の誰かが、助けてくれた。
その巡り合いはウヤフジ(ご先祖様)が導いてくれたと、確信している。
私は、文章の書き方を勉強し始めてから、「深く、深く、より深く考える」ことに気づいた。大工にしろ、商売人にしろ、今思うと、その時は深く考える事が少なかった。
あまり、時間をかけないで、思い付きでやっていたような気がする。
身体障害者になったのは59歳の時であった。
アメリカの政府に助けられた。
生活できるだけの身体障碍者年金がもらえた。
年金を納めていから、つくずくよかったと、胸をなでおろした。
最低限の生活費がもらえるので、安心して、文章の勉強に夢中になれた。
文章の”ブ”の字も知らなかった、大工であった私、フリムン徳さんが自己流で文章の書き方を勉強し始めた。
石の上にも3年ではない、10年である。
どこの新聞社、出版社へエッセイ、詩を応募してもペケペケであった。
「これは何を書いているのか」と言われたこともあった。
でも、私は諦めなかった。
応募し続けた。
エッセイの達人になる夢があるからである。
継続は力なり、本当のようである。
アメリカの日本語新聞、シアトルの北米報知、ロスアンジェルスの羅府新報、サンフランシスコの日米新聞、北米毎日新聞に8編応募して、5編も同時入賞した事もある。
これが自慢せずにおられるかいな。
26年間大工をしていた男の文章がである。
頭を叩いても、ほっぺをひねっても、入賞していたのである。
なんぼエー格好シーと言われても、ナンジャらホイである。
私は今69歳である。
歳がなんじゃい、諦めたら、アカンと、自分に言い聞かせて、文章の勉強に励んでいる。
運動神経があまりよくない私はどの仕事にも慣れるまで他人より時間がかかった。
だから、夢中になって、努力し続けた。
努力というものが、実ったら、「あいつは天才」だという人さえ出てくる。
人の受け取り方はいろいろだった。
元商売人だった私、元大工だった私、三途の川に二日間も立って天国を眺めていた私、エッセイの達人になる夢を達成したいフリムン徳さんのエッセイの成長振りを優越感を持って、お読みくだされ。
苦笑いしながら、片目をつぶりながら、唸りながら、辛抱しながら、お読みくだされ!!!! 扇千景さんのコマーシャル ”私にも写せます” やない。大工にも文章が書けます” です。