モントレーの山奥から心の叫び 5--「病マンネン、気張りよ!」1836字 | ikoma-gun(フリムン徳さん)のブログ

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5--「病マンネン、気張りよ!」1836

 

 新緑の門松の絵の年賀はがき、家族そろった楽しい笑顔のカラー写真の年賀状など今年も沢山もらい、ダイニングルームの周りに飾って、楽しませてもらってる。 

「もう新年になったのか」としみじみ思うのもこれらの年賀状を眺める時である。 

また自分の歳に一を足す時でもある。

その中に一枚だけ、 曲がりくねった列、へたくそのアルファベットらしき文字で、 私の住所を書いた日本のお年玉付の年賀状がある。 

沢山の年賀状の中で一番お粗末な字である。 

郵便屋さんもよく子の字で配達してくれたものである。

でもこの年賀状は私に何かを訴えているように思えてならない。。

日本にいる九十四歳になったお袋からの年賀状である。
たぶん、弟の道雄に私の住所を英語で何かに書いてもらい、それを目をショボショボさせながら、それこそ、丹念に一字一字のアルファベットを真似て書いたと思う。

 一字一字を書くたびに、「徳市はアメリカでどうしているかなぁ」と長男の私の顔を思い浮かべながら書いたであろう。

「物を粗末にしたらアカン、もったいない」の口癖のお袋に、傍で弟の道雄が、「ほれ頑張れ、もう一息」と励ましながら、「一字間違ってもアメリカには届かんよ、 一字間違っても年賀はがきは使えなくなり、葉書の無駄になるんだよ」と言って笑わせながら書いているお袋の顔も見えてくるようだ。

故郷喜界島、昔のオメトおばあさんを思い出した。

お袋の母親である。 

その当時の選挙の頃、おばあさんは選挙の何日も前から、字の稽古に励んだ。 カタカナの字である。 

おばあさんの字の稽古は、朝の一番鳥、二番鳥の鳴く、午前三時、 四時から始めるサツマイモを煮る時である。
大きな鍋にくべる薪の小枝で、 おじいさんに教えられた「ヤスオカ」と昔の自由党候補者の名前を地面に何回も書いては消し、書いては消しして稽古していた。 

「自由党は何でも自由にやらせてくれる、百姓の味方は自由党」とおじいさんがおばあさんに言っていたのを思い出す。

お袋からの年賀状の裏は立派である。

列をはみ出さないで、縦に「新年明けましておめでとうございます。

病マンネン、気張りよ!」と見事にはっきりと書いてある。 この日本語の新年挨拶の字体と文章を見ると、少し安心する。

字にお袋の94歳とは思えない元気な姿が出ている、文章に 改まったお袋の様子が伺える。 

またどうして自分の息子に「おめでとう」だけでいいのに「おめでとうございます」とご丁寧に ございます まで付けている。 

「これをしたらアカン、 あれをしなさい」と小さい時にお袋に言われた命令調の言葉ばかりが頭に残っているから、少しこそばいような気持になる。
「何歳になっても子供は子供」と言っていたお袋が「もう身体がいうことをきかない、 もう生かされているだけだよ」と 社長の座を息子の私に譲ったなぁという気もする。

「ギンキシィ 気張りよー(元気で、頑張れよ)」
「ギンキシィ うもーりよー(元気で、いなさいよ)」
「病マンネン 気張りよー((病気しないで、頑張れよ)」と 昔の喜界島の人達が
よく言っていたこの言葉が五十年以上経った今も、このアメリカでも耳元に大きく残っている。 

沢山の見送り人のこの言葉に包まれて、若者達は私の故郷の小さな喜界島小野津村の桟橋から、赤青黄の色とりどりのテープが引き千切れる御幸丸で大和(内地)へ向かった。

もういつ会えるかわからない、ひょっとしたら、これが最後の別れになるかもしれないと寂しい思いの中に、身体を大事にして、頑張れよと叫んでいた。 交通の発達していなかった昔、喜界島から大和へ旅するのは最後の別れも意味していたように思う。

まず第一が健康、元気、その次が気張りよー。
私のお袋は「病マンネン、 気張りよー」の後に「人に負けるなよー」と必ず付け加えた。 

その言葉は私よりも自分に言い聞かせているように思えた。

島で、貧乏を味わい、苦労したからだろうか。 

それともお袋は負けず嫌いの性格だったかもしれない。

もしそうだとすれば私はその負けず嫌いを継いでいるような気がする。

 今年の年賀状は
人に負けるなよーがなくなって、病マンネン、気張りよーだけになっている。

九十四歳なり、コタツに入ったまま動こうとしない奈良にいるお袋の老体が浮かんでくる。
「お袋、ギンキシィ、 長生きシィ、 うもーりよー」