395-引越しはプロに頼むべし | ikoma-gun(フリムン徳さん)のブログ

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「引越しはプロに頼むべし」 
 
 オレゴン州の夜中の2時頃の真っ暗闇の中だった。

ヘッドライトに照らされる森の中の曲がりくねった細い道。

いつエンジンが止まるかわからないトラックを進まされた。

家1軒分の家財道具が満載されている。

行く手を阻むように、これでもか、これでもかと、

高くて大きな太いまっすぐのダグラスファー(杉)の木が

真っ暗闇の空にそびえ立っている。

今にも何かが出そうで、怖くて、ならない。

死ぬ思いという言葉が頭のなかで騒いだした。

借りたレンタルトラックの修理専用の

ピックアップトラックに先導されてここまで来た。“



 ここはシアトルとロスアンジェルスを結ぶ

フリーウェイI-5を降りて、脇に5分ぐらい入った所。

表ドアの上に付いているたったひとつの裸電球が淋しく

周りを照らしていた。生きる望みが出てきたみたいだった。

喜界島のウヤフジ(ご先祖様)が助けてくれたと思った。

捨てられたみたいに置かれている、おんぼろトレーラーハウス。

アメリカで有名な引越専門レンタルトラック“ユーホール”の

オフィスなのである。

ワシントン州タコマのユーホールでトラックを借りて、

私の住んでいたシアトルの山奥グラハム

(マウンテンレイニアのふもと)の家の引越荷物を満載して、

サンフランシスコに向かったのが日が暮れてからであった。

翌日の朝早く出発するゆとりが心になかった。私は焦っていた。

痛風で足の痛みがひどく、仕事が出来なくなり、

収入もなくなり、5年ほどいたグラハムからサンフランシスコへ

引越すことに決めた。1995年、私が52歳の時であった。




 人間、不安な気持ちで、焦っている時は何かが起こる、

やはり起こった。

オレゴンに近くなった辺りから、トラックの調子が

おかしくなり、スピードが出なくなった。

後から車がドンドン抜いていく。いつ追突されるかもしれない。

もう、これではアカン。不安でならない。

自分の身の惨めさを責めながら、喉もカラカラになる、

ハンドルを握っている手は汗で濡れる。

幸運にもすぐ近くにインターチェンジの降り口があった。

またウヤフジ(ご先祖様)が助けてくれた。

私が困った時はいつも喜界島のウヤフジが助けてくれる。

降りたら目の前にガソリンスタンドがあった

。“胸をなでおろす”という言葉が心の中でグニャーンと

なったみたいだった。



 ガソリンスタンドの公衆電話の真前にトラックを止めた。

電話の受話器にしがみついた。へたくその英語で、

ユーホールの会社に訴えた。ついに修理専

用のピックアップは来た。

ピックアップから降りてきたアメリカ人に

「早く、代わりのトラックを呼んでください」と、

死に物狂いの声と、死に物狂いの顔で頼んだ。



 「だめです」と地獄からのような声が聞こえた。

「ユーホールの規則で、途中で、故障した車は、

その辺の修理専門の車が修理するのが原則で、

代わりの車は持ってこないという」何回も同じことを

頼んでも聞いてくれなかった。

「なんちゅうこっちゃ、」また、泣きとうなった。

考えた末に、私は20ドル札を彼に握らせた。

何とかしてみるという。やはり、金はモノを言う。

「次のインターチェンジにユーホールのオフィスがある」

今晩はそこに車を止めて、明日まで待ってくれという。

 

「このトラックは、怖いから、あんたが運転して、

私にあんたのピックアップを運転させてくれ」と頼むと

、絶対に聞き入れてくれなかった。

「あんた、ずるいよ」「あんたずるいよ」と呟きながら、

とうとう私は折れた。彼のピックアップの後についた。

私も彼も点滅の赤いランプをつけながら、

またフリーウェイに入り、時速60マイルのフリーウェイを

30マイルのスピードで、走りながら、やっと着いたのが

森の中のこのオンボロのトレーラーハウス

(ユーホールのオフィス)であった。彼がトントンと

ドアを叩いて事情を説明した。

朝まで、私はトラックの中で、自分の人生の不運を恨みながら、

不安の夜を過ごした。もちろん一睡も寝れなかった。



 朝になった。オフィスの田舎のオバサンみたいな白人女性が、

近くの町のユーホールへ電話をして、

代わりのトラックを見つけてくれた。

25マイルほど離れた町らしい。

「トラックは持ってこれない、取りに来て欲しい」

なんちゅうこっちゃ、またかいなや、もう、

私はあきれるばかりであった。

腹も立てることが出来なかった。“ディス イズ アメリカ”や。

諦めの心境や。

タクシーを呼んでもらって、私はそのタクシーで

その町へトラックを取りに行った。



 それからが大変だった。

私のトラックの後と代わりのトラックの後とを

ぴったり引っ付けて、大きな冷蔵庫も、洗濯機も、

大きなソーファーも、数え切れない数のダンボールの箱も、

それこそ泣きながら、1軒の全部の引越荷物を一人で

移し換えた。

いったい何時間かかっただろうか、終わった時には、

森の中に夕日が差し込んでいた「引っ越しはプロに頼むべし。


その昔、私は大阪で引っ越し運送屋をしていたのを思い出した。