![3525](https://stat.ameba.jp/user_images/20150827/06/ikoma-gun/8c/ae/j/o0640048013407711305.jpg?caw=800)
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私の人生は手よりも足にまつわる思い出の病気、
怪我が多いようである。
この足の話は21歳の頃の話である。
東京文京区小石川にあった、おばさんの小さな
印刷屋でアルバイトをしていた。
仕事が終わると仲間とすぐ近くの柳町商店街の
酒屋へ行って、立ち飲みしながら、
仕事の鬱憤を晴らすのが一番の楽しみであった。
そこでいい加減に酔って、次に、おばさんの家の横にあ
る2階の寮で思いっきり酔う。
寮に住んでいるのは喜界島の私の小野津村出身の
若者が多かった。
中学を卒業すると私の村の多くの若者がこの東京文京区
小石川周辺の印刷屋に集団就職した。
東京の印刷業界では名の知れていた三晃印刷、慶昌堂、
そして、その下請けの小さな印刷屋、鉛版屋さんの多くが
私の村出身の先輩が経営していた。
三晃印刷の社長さんは日本印刷組合の組合長をしたことも
あるから、島では相当な有名人だった。
慶昌堂の社長は私の親父の腹違いの兄弟である。
その有名な先輩にあこがれて、頑張って独立して
印刷屋さんを経営している私の村の人は今でも東京に沢山いる。
普通語(日本語)の苦手な島の若者は東京の酒屋の
親父さんを相手にはまだ日本語が流暢に口から出てこない。
まだよく知らない、慣れてない東京、そして、
すらすらと日本語が出てこないから、
バーやキャバレーへ行きたくても行けない。
英語に自信がないから、今だにアメリカのバーへ
行けない今の私と同じ心境だったと思う。
続く