『おれの師匠』の巻末には山岡鉄舟の年譜がある。その明治13年の項を見てみると、鉄舟の大悟徹底、御巡幸の先発、愛知県差遣などと記されている。
このうち、御巡幸の場合には、1か月ほどは自宅を留守にしたと思われる。先発として、鉄舟は西村捨三とともに出かけたようだ。先発の役割は、どんなものだったのだろう。手許の資料からは判然としないものの、おおよその想像はつく。宿泊や休憩の宿割、その費用の支払い方法の周知、道路や橋梁の新設•修繕状況、渡船費用の確認など、想定されることに対応するため、多岐にわたったものだと思われる。




