川尻宝岑に、面白い逸話がある。


それは、ある日の晩酌中のことだった。取次の者が、強盗が来たことを知らせに来た。

■宝岑先生 「おぉ、そうか」


宝岑先生は悠然としていた。そこへ、出刃包丁を持った強盗が押し入ってきて、「金を出せ」という。すると、居合わせた奥方が話した。


■奥方 「いま、出してあげますから、そんなものはお仕舞いなさい。そして、ここは隠居所ですから、日々の小遣いだけしか置きません」

奥方はなんとも落ち着いた対応をした。掻き集めたお金は25銭だった。こんどは宝岑先生が口を出した。

■宝岑先生 「たったそれだけでは気の毒だなァ。とにかく一杯あがらんか」

なんと、宝岑先生は強盗にお酒を進めたのだ。さすがに強盗は「酒なんぞ!」と言って飲まなかった。そして、宝岑先生は奥方に話しかけた。

■宝岑先生 「せっかく来なすったのに、あまりに金が少ない。何かないか。着物でも出してあげたらよかろう」

それに対して、奥方は言う。

■奥方 「さよう、あげても宜うございますが、衣類は直ぐに足がつくということです」

強盗は諦めたのか、25銭を持って逃げてしまったという。


〈参考文献〉 

『川尻先生 警訓一滴』(静岡心学道話会編輯兼発行、大正元年)