ひと月ほど前に、明治期にアダム•スミスの『富國論』の全訳に初めて着手した石川暎作氏の墓参をした。

場所は台東区谷中にある谷中霊園。その霊園内の甲2-8に彼の墓石があるはずだった。しかし、その墓石を見出すことができなかった。

霊園事務所で確認したところ、石川暎作氏の墓石は整理されてしまい、立体合同墓に合葬されたことがわかった。

その石川暎作氏ゆかりのお酒を注文しておいた。それがきょう届いた。そろそろお盆でもあるので、彼を偲んでちびちびとこのお酒を飲んでみようか。

石川暎作氏についてネットで調べてみると、おおよそ次のように記されている。

■石川暎作氏
・安政5年4月20日生
(1858年6月1日)
・明治19(1886)年4月20日没
・生誕地 現在の福島県耶麻郡西会津町
・石川市十郎の第三子
・明治6年、横浜の高島学校で英語を学ぶ
・明治7年、慶應義塾に入る
・のち大蔵省に入り、銀行局御用掛となる。この時の居住地は本所区本所相生町3丁目8番地。
・病を得て、大蔵省を退く。
・創刊当初の「東京経済雑誌」の編集にあたる。
・渡部鼎氏と共に婦女結髪改良束髪会を組織する。
・明治19年、結核により29歳で亡くなった。




これは再版。


台東区谷中にある谷中霊園。このあたりに石川暎作氏の墓石があったと思われる。

谷中霊園の立体合同墓(乙8)。右のプレートに石川暎作氏の名前を見出すことができる。