江戸城無血開城の談判を終えて、江戸に向かう山岡鉄舟にたいして、西郷隆盛は「一國の存亡子の身に在り、自重せざるべからず」と語った。また、石坂周造は「勝は德川の柱石だが、山岡は國家の柱石だ」と言った。(『おれの師匠』)

私はときどき、そんな山岡鉄舟の一端を紹介している。今回は小澤愛次郎氏の著作から、鉄舟について触れている部分を紹介してみたい。
小澤愛次郎氏。(『劍道指南』より)

小澤愛次郎氏は文久3年生まれ。忍藩の松田十五郎から小野派一刀流を学んだ(松田は浅利又七郎の門下だという)。『小澤愛次郎の遺稿と追憶』(昭和50年)の巻末の略歴によると、小澤氏は「山岡鐵舟、渡邊昇、千葉之胤、榊原健吉、逸見宗助、根岸信五郎、柴田衛守の諸家を歴訪して劍法を研究す」とある。また、小澤氏は衆議院議員となり、剣道と柔道が中等学校において正科となるよう働きかけ、ついにそれを実現させたことで知られている。

小澤愛次郎氏の著作には『剣道指南』(昭和2年)や『皇国剣道史』(昭和19年)、そして『小澤愛次郎の遺稿と追憶』がある。『劍道指南』はとてもよく読まれたようだ。私の手元にあるものは29版。多くの誤字が訂正されることなく、版を重ねたのは残念だ。『皇國劍道史』も面白いのだが、誤字が多かったりすると、その内容についても疑念を抱いてしまう。いずれの著作でも山岡鉄舟について触れている部分は、残念ながら少ない。なお、小澤愛次郎氏ゆかりの埼玉県羽生市には彼の胸像がある(羽生駅近くの毘沙門堂境内)。

まず『皇國劍道史』から。
時代は明治。榊原健吉について触れて、「劍の道は遂に興行にまで堕落した」と記し、また“剣術使い”を乞食とまでみさげるに至ったという。とはいえ、別の箇所では「維新後食に困り、撃劍興行の始祖となつたが、一方劍名は高く來朝中の知名の外人、數多教へを乞ひ、日本劍道の爲名聲を失はなかつた」とも記している。
この頃の山岡鉄舟だが、「明治時代に入りて、世相一變し、劍道は日に衰退の一途を辿つたが、山岡鐵舟の無刀流は嶄然此の寂寥を破つて、劍聲を鳴らした」と。

次に『小澤愛次郎の遺稿と追憶』から。
大阪の高山峯三郎と山岡鉄舟との試合について。この高山峯三郎はなかなか強気の者だったらしく、上京の折、東京警視庁の三十数人の先生を総なめに倒した。最後にようやく逸見宗助先生が連敗を食い止めたというのだ。

ある日、その高山が鉄舟と試合をした。最初、鉄舟に対して積極的にドンドン当てたという。それを見ていた傍らの者が「さすがの山岡先生もかなわぬのかなぁ」と話していた。しかし、そのうちに、鉄舟の気合が充実してきて、高山はだんだんと後へ後へと追い込まれてしまい、隅っこに押し付けられてしまった。そこでお突きをくって、たまたまそこにあった椅子に腰掛けてしまったという。すぐにまた立ち会ったものの、高山はまたしても追い込まれて椅子に腰をついてしまったという。「高山先生も山岡先生には問題にならなかったらしい」と。

ここで、ふと“綿貫警視”のことを思い出した。佐倉孫三の『德川の三舟』(昭和10年)にある話だ。
ある日、綿貫警視が鉄舟邸にやってきた。その際、剣道についていろいろと話をしていたようだ。少々長くなるが、原文のまま文章を引用してみたい。

「綿貫警視は筑後柳川の人、體軀魁岸、頗る擊劍を善くす。一日鐵舟を訪問し、劍道の談を爲すに、符合せざる所あり、言稍や激に渉る。鐵舟從容として曰く、今子の所見と余の所見と合はざること斯の如くなるは、畢竟坐上の空論、圃中の水鍊に過ぎざればなり。寧ろ眞劍の仕合にて其論の孰れか實地に近きかを確むるに若くはなかるべし。子も余も同じく劍客の一人なれば、孰れか死傷しても、此道の爲めなれば詮方なし、子は余が骨を切れ、余は子の皮を切らん、速かに仕度せられては如何と。眞面目になりて申掛ければ、流石の警視も困じ果てたる樣子にて、言を左右に托して辭し去り、後日人に語て曰く。稽古は兎も角、眞劍では鐵舟には危ぶなし危ぶなし」と。
小澤愛次郎氏の像。埼玉県羽生市の羽生駅近くの毘沙門堂境内にある。