山岡鉄舟は、ある弟子を戒めて、次のように言ったという。
「ひとのためだなんていふものは、この世に一つもありませんぜ、みんな自分のためですぜ。」

この話は『鎌倉夜話』にぽつんと紹介されている。『鎌倉夜話』は小倉鐵樹氏の語録を記したものだ。山岡鉄舟に関する小倉の語録は、後に『おれの師匠』としてまとめられて出版された。この『おれの師匠』と『鎌倉夜話』の語り手である小倉鐵樹氏はどんな人物だったのだろうか。
左が渡邊伊三郎少年(『小倉鐵樹先生』より)

晩年の小倉鐵樹氏(『小倉鐵樹先生』より)

小倉鐵樹氏の語録の『鎌倉夜話』より

『鎌倉夜話』の巻末に小倉鐵樹氏の小伝が記されている。そこから、鐵樹氏が鉄舟門下になるまでを略述してみたい。なお、この小伝は『おれの師匠』の緒言にもほぼ同様の文章が掲載されている。

①出生と没年
慶應元年(1865)4月3日、越後國西頸城郡青海村大字橋立の豪家渡邊太郎の三男として生まれた。本名は渡邊伊三郎。鐵樹は号。小倉姓を名乗ったのは、明治30年、鐵樹氏が34歳のときに、小倉庄之助の養嗣子となったため。没年は昭和19年(1944)4月1日。鎌倉市にある浄智寺に葬られた。

②明治天皇の北陸東海御巡幸
明治11年9月28日、明治天皇は青海村に立ち寄った。13歳の渡邊伊三郎少年にとって、明治天皇一行の情景は、大きな刺激になったに違いない。

中央やや左に「山岡鐵太郎」の名前が見える
第15日に「青海」とある

③上京
家出同然で上京。いったん郷里へ連れ戻されるものの、伊三郎少年の決心は固く、遊学を許された。明治12年のことらしい。神田淡路町の共立学校で洋学を、また二松学舎では漢学を学んだ。軍人になることを目指して士官学校入学試験に臨んだものの、身長不足のため不合格となった。

④山岡鉄舟門下となる
士官学校試験に不合格となった伊三郎少年は、その志を内的方面に変更した。当時“大人格者”として評判だった山岡鉄舟を春風館道場に訪ねた。しかし、簡単には入門を許されなかった。そのため、伊三郎少年は根気よく道場に通った。そして、明治14年12月31日、ようやく入門を許されて内弟子となった。
右から二人目に渡邊伊三郎の名前がみえる(『一刀正傳無刀流春風館記録集』より)

〈参考文献〉
『鎌倉夜話』(昭和8年、牛山堂書店)
『おれの師匠』(昭和12年、春風館)
『小倉鐵樹先生』(平成元年、青海町役場内 小倉鐵樹師顕彰会)