「方法」ということ。

 

 別役さんへの追悼のつもりで書き始めた前回は、少し個人的な事に偏ってしまった気がする。ただ、僕が演劇をこころざした頃に出会い(本を読んで)、重要な示唆を貰ったことには変わりがないので、その辺について、もう少し率直に……。

 

 別役さんに教えられたことはつまり「方法」ということだったのだと思う。

 

 未熟、だったことが一番大きいが、リアリズムを目指して芝居を作っているときに、作りこんで芝居がリアルになればなるほど、「だから何?」という思いに囚われることがあった。

 

 「今日の世界は演劇によって再現できるか」というのは、ブレヒトの演劇論のタイトルだが、「再現は、果たして、演劇の目的たり得るのか」ということである。

(確か寺山修司がこれをもじって「今日の再現は演劇によって世界できるか」とかも言っていた)

 

 もちろん、だからプロパガンダ演劇や、社会派の芝居でなければだめだということではない。演劇は、社会的政治的な目的のためのものであるという考えは、演劇を殺す。これはなぜか確信があった。

 

 俳優の演技についても、演出の考え方についても、今は、そう無邪気ものではないということがわかってきた。が、芝居を始めたころは、本当にリアルな世界を描き出すことに行きついたら、そのあとは、どうすればいいんだ。と、できもしないのに考えていたのである。

 

 そういう時に別役評論を読んだ。

 「盲が、象を見る。」というユダヤの古い諺が紹介されていた。

 目が見えず、象というものを知らない人が、触覚でもって象を判断すると、ある人は。耳を触り、象とは大きなうちわのようなものだ、と言い、足に触った人は、柱のようなものだ、鼻に触れたものは長い管のようなものだ、という。

 

 つまり私たちの「世界」を見る見方もまた、このようなものだ、ということだ。

 演劇も又、そうだ。

 

 私たちが描くのは「世界」ではなく、その不完全な一部、あるいは歪んだ縮図。

 その不完全さと歪みをこそ、観客の前に、その向こうにある何とも知れない「世界」を意識できるようなものとして提示できないだろうか?

 

 演劇は、そのように機能すればいい。だから答えは出さない。何かに与さない。

描くものは、ここにはないもの。

 

 そう思ったとき、演劇の不完全さが、逆に無限に広がる可能性のような気がした。

 

 また少し難しくなってしまったら、すみません。

 もう少し別の角度から、又、書いてみたいと思います。