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【原田一樹からのお願いです】
テアトルエコー、エコー俳優声優アカデミー 六期生 シリウスクラスの中間発表公演が、明日 3月18日 と 19日 エコー劇場でございます。
「骨まで愛して」
作・演出 原田一樹
この作品は、石川県七尾市の市民劇団Nで初演、その後少し演目を変えて再演もしております。
「御神酒徳利」や「里帰り」「薮入り」などの落語を題材にした作品でとても面白いです。
年齢が私に近い方なら、城卓也「骨まで愛して」の歌は鼻歌で歌えると存じます。この歌もバンバン流れちゃいます。
どうも、お客様の入りがあまりよくないようで、「よし、行ってやろうか」というお方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。
瀬田までメッセンジャーでお知らせください。
直前のご案内で恐縮ですがどうぞよろしくお願いいたします。
昨日16日のアフタートークの模様です。
音楽家の和田啓さんと演出の原田一樹。
和田さんには、今回の音楽製作の裏話や、実際に使用したカリンバの音を聞かせていただいたり、音楽についての様々なお話をお聞かせいただきました。
昨日は私の高校の演劇部の先輩が大学時代に一緒に「夜明け……」を演じたお仲間をたくさん連れてきてくださっていて、昔の音響操作の苦労話などにいちいち大きくうなづかれていたようです
長い付き合いの気の合う二人。それにしても、楽しそうです♪
のちほど、YouTubeにアップします♪
本日以降、おかげさまで満席となっております。
最後まで駆け抜けます♪
http://www.kinder-space.com/index/re50.yoake.html
(せた)
14日のアフタートークの模様です。
【夜明けに消えた】終演後アフタートーク①ゲスト矢代朝子さん
レパートリーシアターVol.50【夜明けに消えた】
2022年6月11日〜6月19日
6/14終演後アフタートーク①が開催されました。
ゲストには“夜明けに消えた”の作者 矢代静一氏のご長女、俳優の矢代朝子さんをお迎えし、生前の執筆のご様子など、大変貴重なお話を聞かせて頂きました。
〈出演〉
劇団キンダースペース主宰・演出 原田一樹
ゲスト 俳優 矢代朝子氏(矢代静一事務所)
「夜明けに消えた」サイト
「夜明けに消えた」を最初に観た時、勝手にこれは矢代静一の処女作に違いないと思い込みました。もちろん戯曲を手に取り解説を読んで、作者が四十才の時、1968年の作品という事を知るのですが、やはりこの作者の一連の作品の中で大きな転換点を示す異色作で、実際に作者は初演の翌年に洗礼を受けて、つまり生き方の大きな転換をしています。
芝居の中で主人公の台詞としても語られているのですが、この作品は「人が生きる」ということを「トコトンギリギリの所」まで追い詰めて、その人間がどう判断をするか、何を言うのか、これからどうするのか、を主要な人物全てに突き付けています。なので、若い時期にこの作品と接すると、演劇の大きな意味の一つがここに在る、と、興奮せざるをえないのです。
その後、1985年にキンダースペースを立ち上げ、書いて演出するということを続けて15年が経ったころ、いよいよ書けなくなって、初めて書き下し以外の演出作品として選んだのが「夜明けに消えた」でした。1999年のことです。キンダースペースが初めてシアターXと提携した作品でもあります。
実は、私自身は「夜明けに消えた」最初の演出はキンダースペースではなく、オープン間もないさいたま芸術劇場の小ホールの、公共ホール舞台技術ワークショップ上演作品として、でした。高さ11メートルある馬蹄形客席の小ホールに高い階段を組み、一幕の〈ぐず〉再登場では、彼女の足下に満天の星が輝いていたのを憶えています。その後はスターダス・21演技研修所の修了公演で二度。この時のメンバーの何人かが、今のキンダー若手の主力となりました。そして今回。初演の青年座から様々な劇団の上演史上、おそらく最も小さい空間での「夜明けに消えた」であるはずです。星空は見上げずとも手の触れられる先に。また、古今の名作の例にもれず、半世紀以上前のこの作品には、明日はやってくるかもしれない「いくさ」についても、身の回りにある「やまい」についても。今ここに在るように書き込まれています。
さて、私たちはどこまで私たち自身を「トコトンギリギリの所」にまで追いつめられるでしょうか。若手たちとトコトン取り組んでいきたいと考えております。
演出/原田一樹
夜明けに消えた サイト
劇団キンダースペース公演「夜明けに消えた」 (kinder-space.com)
ワークユニット2021修了公演「モノドラマ」
3/24-27 劇団キンダースペース アトリエ
志賀直哉、菊池寛、芥川龍之介、太宰治、安房直子。
それぞれの作品の風景を、小さなアトリエに、役者一人で、立ち上げます。
ぜひ、私たちのモノドラマを体験してください。
原田一樹が演出します。
http://www.kinder-space.com/index/wu2021-2.html
ワークユニット2022メンバーを募集します。
基本・週4日の稽古、秋の中間公演、春の修了公演「モノドラマ」を予定。演劇にとって必要なことがギュっと詰まった一年間。演出家・原田一樹をはじめキンダースペースのメンバーが全面的にバックアップ。
キンダースペースの「演劇」の「場」を体感してください。
説明会は 4/29と5/5 11:00〜
http://www.kinder-space.com/index/wu.html
管理人
「遠くからの視線」 ~野がも・小さなエイヨルフ連続上演~
10年を隔てて書かれたこの二作は多くの共通点を持つ。両作とも子供のいる家庭が舞台。子供はそれぞれ障害を負っている。「野がも」のヘドヴィクは目の疾患。「小さなエイヨルフ」は幼児期の神経損傷で片足がきかない。子供たちは親に気を使い、その目線の先の父親は存在が危うい。「野がも」では過去の挫折を引きずり現在の職に生きがいも稼ぎもない。「小さな~」では富裕層の妻の愛情(欲望)により生きてきたことに、ようやく疑問を抱き始めた。そのため一方は外から押し付けられ一方は自ら、という違いはあるが「理想」「責任」という近代が生み出した概念(言葉)に振り回される。二作とも「死」が登場人物に襲い掛かる、と同時に物語の底に象徴的に横たわる。森、山、フィヨルド、湖水……
1879年の「人形の家」以降、イプセンはほぼ二年毎に、秩序や良俗を脅かす問題作を発表して来た。上演差し止めもしばしば。この作風を作者自身の青春期の不遇や近親との軋轢に帰するのは短絡で、その眼差しは深く人間の作った「制度」への不信に充ちている。「制度」のもっとも身近なものが「家庭」で、ほとんどの作品でその崩壊が描かれる。「近親相姦」が時にモチーフとして扱われるのも、これをタブーとしたのがおそらく文明最古の「制度」であるからだ。共同体の維持には「嫁」の交換が必須。「人」は100万年前から「明日」に怯え続けてきた。現代も上演され続けるイプセンの「普遍性」はその反俗性にあるのではなく、人を追い詰める「制度」を見抜く、こういった目線にある。
イプセンの生きた19世紀、欧州では生活が飛躍的に向上した。現在あるものはほとんどこの時代に生まれている。国民国家、資本主義、社会主義、グローバリゼーション(帝国主義)、経済成長、消費社会、格差(貧富)。人々は都市に集中。コーヒーと糖分と脂肪を過多に摂取。夜も明るい街に繰り出す。「進歩」が謳歌され「神」は忘れられ、自然は開発対象。こういう時代にイプセンはほとんどの著作を故国から離れた外国で書いた、「文明」への違和感を手掛かりに。
冒頭に今回の二作の共通点をいろいろ上げたが、一つ印象深い相違点がある。それは分断と崩壊の極みで終幕を迎える「野がも」から十年「小さなエイヨルフ」では「共存」が、少なくとも志向されてはいる事だ。この第三幕への不評は毛利三彌氏の「イプセンの世紀末」によると欧米では周知のことらしい。確かにこの夫婦の「共存」の思い付きは唐突で、物語の必然も当人たちの「実感」も薄い。しかし「実感」がないという事は、だから「無意味」という事ではない。「実感」がないからこそ人は手を伸ばす。現代の「共存」は、このくらいの実感の薄さの中にしか存在しない。
これは「死者」からの目線も同様で、生きている私たちが感じようとしなければ「死者」は現れてくれない。
原田一樹
ワークユニットは、意欲ある演劇表現者のための研修の場です。
1999年開始。通常は週4日、10~13時の活動です。前期は、演劇史・演技論等座学講座、身体と声の基礎、演技実習、モノローグ、ダイアログそれぞれの小発表。秋に中間公演。修了公演は例年「モノドラマ」を創作、公演します。
二つの公演はいずれも参加者の主体的なかかわりと劇団員のサポートにより、独立した演劇公演として実施するものです。
演劇に限らず、私たちが「表現者」であるのは創作に向かっている、その時間だけです。戯曲に向かう、台詞に向かう、自己に向かう、舞台に立つ、その継続がなければ、感性は錆びつき、枯れてゆきます。
そしてまた、舞台芸術の研修の場は、そのまま「人」としての成長の場でもあります。「人」としての魅力がなければ、「俳優」としての魅力も望めません。「人」の技能や発想力は、「他」との共同作業や創造の中で磨かれ発揮されるものです。空間の造形、演技表現、音響音楽、そして全員で紡いでいく一つのドラマ。総合芸術としての演劇公演は、私たちが生きている社会と私たち自身の姿です。「なぜ生きるのか」「どう生きるのか」は、登場人物の課題であると同時に私たち自身の課題であり、「演劇」が求めるのはまずこの「問い」と向き合うことです。
今回の演目「犬のいる庭」は97年、うえだ峻さんの依頼で書き下し、その後キンダースペースでも狭間鉄さんを迎えて上演した作品です。四半世紀前でも生な感触は残り気恥ずかしく、正直描き切れていないと思われる作品ですが、演劇の可能性は本にばかりあるものでもありません。今回の俳優たちが、この設定の中で「何か」を魅せてくれることを期待します。とはいえ、作品について当時考えていたことを少し申し上げると、台本の表に現れる「ドラマ」はあくまで「作り事」であり、その背後に流れる、或いは舞台の現実的な時間のずっと以前に流れる、俳優の、つまり「人間」の「ドラマ」にこそ「演劇」があるのではないか、という事です。テレビや映画ではその「ドラマ」が観客の目の前で起こる。「演劇」の場合は登場人物を通してその「ドラマ」を、観客が想像する。もちろん、その企みがうまく機能するかどうかは、その時の座組にかかっています。平安期の今昔物語などを読むと、女は家にいて男が通う。そこにすれ違いや、心の乱れが生まれる。というようなことも考えていた。……ような気もします。頼れるものの少ないドラマは、きっと座組の試練となるはずです。
ご意見、ご批評などお聞かせいただければ幸いです。
原田一樹
テネシーの一貫
「罠」“At liberty”[現在フリー]は、1941年(30歳)の執筆。「語られざるもの」“Something Unspoken”は1951年。この十年の間に、作者ウィリアムズ家の長男トムは、仕事も間借りも同棲する恋人(男)も転々としつつ執筆を続ける学生劇作家から、「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」「夏と煙」で次々に賞を獲得、アメリカを代表する劇作家テネシー・ウィリアムズへと変貌した。
だがこの二本の作品にそれほどの違いが認められるだろうか? もちろん両作品ともその後、手が入れられている。しかし彼の創作衝動が終始一貫していることが作品の相同性の元になっていることは間違いない。その「衝動」とは「消え去っていくものの姿を、どうにかここにとどめたい」ということだ。彼の作品はことごとくこの意志に貫かれている。この終始一貫はどこから来るのか?
「消え去っていくもの」とは「何か」の犠牲になるものの事である。
テネシーは舞台の成功にかかわらず定期的に襲ってくる精神錯乱に悩まされた。回想録によれば「私はこれを“青い悪魔”と呼んでいる。これはテネシー家の気質ではないかと思う。姉の精神を破滅させ親父を酒乱にさせてしまった。」
二つ上の姉ローズは「父親がぶち壊した家庭」の犠牲者だった。「ガラスの~」がこの家の自画像であることは周知である。しかし同時に、常に不足を抱えていた父親も又犠牲者だった。犠牲者が犠牲者を生む社会……
アメリカは自助の国である。努力し成長し、自ら助くる者が成功をつかむ。弱い者、貧しい者が強いられる「犠牲」は自助を怠った当然の報いである。
一見正論のこの信条に支配された国では、ほんのちょっとしたきっかけで沈んだ者は、ずるずると負のスパイラルに飲み込まれ敗者の烙印を押される。
アメリカの作家たちはこの構造に目を向ける。テネシーの同時代では「セールスマンの死」のA.ミラー。百年前にはポーがいた。
今、アメリカの信条はグローバリズムの名の元に世界を席捲する。この時代、テネシーの描く、家父長ではない「女たち」の「自負」は、どのように掉さすことができるのか? テネシー・ウィリアムズの名声が「犠牲となる女たち」を演ずる女優を見事に輝かせたことで得られたのも又、周知である。
ちなみに「語られざるもの」の女主人・コーニリア“Cornelia”は、テネシー(本名トマス・ラニア・ウィリアムズ)の父親の名である。同名のバラの品種もあるらしい。
原田一樹
明日は和田啓さん、松本泰子さんのべらぼーちゃんねるに、
原田一樹がゲスト出演します。
19時スタート予定です。
ご支援のほど、よろしくお願いします
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べらぼーちゃんねるライブ配信第6回年末特別企画ゲストは原田一樹さん(劇団キンダースペース主宰)
2020/12/29 に開始予定
Beravo
チャンネル登録者数 145人
年末特別企画!!!
『「演劇と音楽」を語る』
ベラボーチャンネルライブ配信第6回は、
演劇界においてその実力の高さから様々な劇団やプロデュース公演の演出を手掛ける演出家であり、劇団キンダースペースを主宰する、原田一樹さんをお迎えして、「演劇と音・音楽」についてたっぷり伺うことに致します。
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