テネシーの一貫
「罠」“At liberty”[現在フリー]は、1941年(30歳)の執筆。「語られざるもの」“Something Unspoken”は1951年。この十年の間に、作者ウィリアムズ家の長男トムは、仕事も間借りも同棲する恋人(男)も転々としつつ執筆を続ける学生劇作家から、「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」「夏と煙」で次々に賞を獲得、アメリカを代表する劇作家テネシー・ウィリアムズへと変貌した。
だがこの二本の作品にそれほどの違いが認められるだろうか? もちろん両作品ともその後、手が入れられている。しかし彼の創作衝動が終始一貫していることが作品の相同性の元になっていることは間違いない。その「衝動」とは「消え去っていくものの姿を、どうにかここにとどめたい」ということだ。彼の作品はことごとくこの意志に貫かれている。この終始一貫はどこから来るのか?
「消え去っていくもの」とは「何か」の犠牲になるものの事である。
テネシーは舞台の成功にかかわらず定期的に襲ってくる精神錯乱に悩まされた。回想録によれば「私はこれを“青い悪魔”と呼んでいる。これはテネシー家の気質ではないかと思う。姉の精神を破滅させ親父を酒乱にさせてしまった。」
二つ上の姉ローズは「父親がぶち壊した家庭」の犠牲者だった。「ガラスの~」がこの家の自画像であることは周知である。しかし同時に、常に不足を抱えていた父親も又犠牲者だった。犠牲者が犠牲者を生む社会……
アメリカは自助の国である。努力し成長し、自ら助くる者が成功をつかむ。弱い者、貧しい者が強いられる「犠牲」は自助を怠った当然の報いである。
一見正論のこの信条に支配された国では、ほんのちょっとしたきっかけで沈んだ者は、ずるずると負のスパイラルに飲み込まれ敗者の烙印を押される。
アメリカの作家たちはこの構造に目を向ける。テネシーの同時代では「セールスマンの死」のA.ミラー。百年前にはポーがいた。
今、アメリカの信条はグローバリズムの名の元に世界を席捲する。この時代、テネシーの描く、家父長ではない「女たち」の「自負」は、どのように掉さすことができるのか? テネシー・ウィリアムズの名声が「犠牲となる女たち」を演ずる女優を見事に輝かせたことで得られたのも又、周知である。
ちなみに「語られざるもの」の女主人・コーニリア“Cornelia”は、テネシー(本名トマス・ラニア・ウィリアムズ)の父親の名である。同名のバラの品種もあるらしい。
原田一樹

