294話 鳴海荘のご主人と行者窟の神通力 |  荒磯に立つ一竿子

294話 鳴海荘のご主人と行者窟の神通力

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話は30年ほど前に遡るが、その頃、わいは40代で、若くて怖いもの知らずだった。
だから、いくらでも無茶が出来た。気力、体力、スタミナの三拍子が揃っていたので、ひとたび荒磯に出たら、一昼夜、不眠不休で釣りをするなんて当たり前のことだった。

むしろ休憩をとったり、宿に戻って寝るなんて、時間の無駄と考えていた。釣りをするためにやって来て、休息とか睡眠に脚を取られるなんて論外だろう。


その頃、わいが大島で出撃拠点としていた釣り宿は、今は廃業してしまったが鳴海荘という釣り宿だった。その宿のご主人は30数年前に大田区蒲田から大島に移住してきた電気工事屋の元経営者で、釣り宿の経営はずぶの素人だった。ただ、職人上がりのそのご主人は何をするにも研究熱心で創意工夫に長けていた。その上、陽気で呑気で歌がうまかったので、たちまち意気投合して、大島での無茶苦茶融通の利く釣り宿になってくれたのである。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご主人の母親は蒲田の自宅で小唄の師匠をしていたというから、歌が上手かったのは母親譲りだったのかもしれない。ご主人の話では、おれは中学を卒業するとすぐに電気工事屋に丁稚奉公に出されたんだよ。奉公先で電工職人として一生懸命働いたことが認められて、28才の時、自分の会社を立ち上げさせたもらったという。元々それなりの知恵や才覚があったのだろう。

職人を少しづつ増やして会社を成長させていくなかで、蒲田にあった大手精密機械メーカーの下請けとして、工作機械や電気設備の保守管理で出入りするようになったそうだ。

これを絶好のチャンスと見て、ご主人は毎夜、工場長や担当課長を蒲田の飲み屋やピンサロに連れ出して接待したそうだ。その甲斐あってか、仕事がどんどん増えて、売り上げはうなぎ上りに伸びたそうだ。

ご主人は気さくで愛嬌があって物怖じしないし、人情の機微も心得ていたから、鼻薬を利かすのも上手かったのだろう。勿論、工場長や担当課長からも可愛がられていたようだ。

しかし、好事魔多しの諺どおり、そうそう好調は長続きしないものだ。

その工場に出入りして十数年たつうちに、工場の設備や工作機械はすべてがIC化、コンピュータ制御になってしまったそうだ。ご主人が培ってきた経験や勘はもはや通用しなくなって、出る幕がなくなってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これを潮時と観念したご主人は、50才になった時、会社を人に譲って、会社経営の一切から手を引き、一介の釣り宿の主人になることを決意したという。そして、大島で釣り宿の居抜き物件を買い取って、心機一転、釣り宿稼業を始めたわけだ。

釣り宿を始めて、最初の数年間は釣り客や観光客がわんさと押しかけ、笑いが止まらないほど儲かったという。ところが5年ほどたった頃から、景色ががらりと変わって、お客さんがどんどん減って行き、ついには閑古鳥が鳴くようになってしまった。

 

わいが鳴海荘のお世話になり始めたのはこの時期で、1週間にお客さんが5人、6人の切羽詰まった状態になっていた。その頃、「今週は予約が全然ねえから、イッカンシさん釣りに来てよー。」なんて、悲鳴のような電話がよく掛かって来たものだ。
客の入りが全滅寸前になって、目論見が外れてしまったご主人は、いつしか投げやりになって、「イッカンシさん、どうせ、お客は来ねえんだから、悪いけど1カ月か2カ月網走に行ってサケ釣りでもしてくるよ。」と言って、長期休業してしまったことが何度もあった。
ご主人に聞かされた愚痴や述懐と相前後して、それを裏付けるかの様に、その頃磯釣りブームはほぼ終焉し、伊豆七島に吹いていた追い風は、ある日を境に逆風となって、離島ブームの栄華の灯も消えて真っ暗闇になってしまったのだ。
要は、鳴海荘だけが経営不振に陥った訳ではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、昔の夢を忘れられないご主人は、「イッカンシさん、なんでお客さんが来なくなったんだろうね?」とよくわいに訊いてきたものである。
また、釣り客がわい一人しかいない時には、「イッカンシさん、今夜はどこに入るの。そーかい、それじゃあ、おれも一緒に連れてってくんねえかい。一人じゃおっかなくて行けねえからよー。」なんて、よく一緒に夜釣りに出かけたものである。


そんな閑古鳥が鳴く頃のある日のこと、ご主人はどこで仕入れて来たのか、

「イッカンシさん、一周道路を三原山の中腹から、原生林の急坂を降って、麓まで下ると海のふるさと村があるよなあ。ふるさと村の吊り橋やその先のトンネルを抜けると、行者窟(ギョウジャクツ)っていう洞窟があるんだってよ。その近くによく釣れる釣り場があるそうだよ。車では入れねえところだし、1キロ以上も歩かなけりゃ行けねえところだから、誰も来ねえらしいよ。だからイサキやメジナが入れ食いになるんだって。」

その人に場所を聞いてメモしてきたから、一度行ってみたらと耳寄りな話を持ち込んできた。冒険と釣りが一緒に出来るなんて、大島広しと言えども、そんなにあるわけではない。

「なんでも、エライお坊さんが昔、その洞窟にこもって修業したらしいよ。」洞窟の脇の崖っぷちを海側に出ると竿が出せる場所があるんだって。狭くて足場が悪いから一人か二人しか入れねえらしいよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わいは早速、ご主人の描いてくれたメモと略図を頼りに、行者窟への釣りと探検に向かうことにした。まず、鳴海荘のあるヌタハマから、三原山の山腹をうねるように走る一周道路を東回りに10数キロ走り、原生林のど真ん中から下るつづら折りの急坂を2~3キロ降って行くと、海のふるさと村のロッジやキャンプ施設が深い木立越しに見えて来る。

そこを通り越して公衆便所のあるどん詰まりのメメズ浜の広場まで降って、そこで車を乗り捨て、背負子に荷物をまとめると、改めてご主人のメモと略図を取り出して確認してみた。すると、そこから先は行者窟までの1キロ余りを歩くことになっていた。


ところで、海のふるさと村は原生林の中に造られた広大なリゾート施設だが、50年前、土建屋首相と言われた田中角栄が、日本列島改造論とリゾート開発法を旗印に全国にあまたのリゾート施設を建設したが、そのほとんどは廃墟になってしまったそうだ。ふるさと村もそのひとつで、東京都が数十億円を投じて建設したが、今は見捨てられたようにガランとしている。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話が逸れたが、その海のふるさと村の付帯施設である歩行者専用の吊り橋を渡り、断崖が海に落ち込む急斜面をくりぬいた歩行者用の隧道を600mほど歩いて、やっと前方に出口の明かりが見えて来た。遊歩道はその先にも続いているが、土砂崩れのため崩落しているので通行止めと立て札が立っていた。略図を見ると、隧道出口の海側に行者窟と荒磯があるらしい。

好奇心にそそられてまず行者窟を覗いてみると、薄暗い岩屋の中央に祭壇のようなものがしつらえてあった。ヘッドランプを点灯してみると、奥の方に苔むした石像もあって、ロウソクや線香の跡が散乱していた。ともかく、薄暗くて抹香臭い薄気味悪い洞窟であった。

いつの時代か知らないが、こんな離島のこんなところで、なんでわざわざ修行しなければならないのか。物好きな坊さんがいたものだと考えながら、抹香臭いことが苦手なわいは、さっさと踵を返して荒磯に向かうことにした。

 

 

 

 









 

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけで、30年前のその頃、何度か行者窟の磯に挑戦したが、数は出るには出たが大物はまったく釣れなかった。それより、深夜、疲れ切って600メートルもある長い隧道に立ち入ると、天井の灯りがすべて消されて真っ暗闇なのである。岩板を踏む磯足袋のスパイク音だけが、ギシギシと歯ぎしりのように追いかけて来る。その上、天井からはピタンピタンと雫が首筋に落ちて来る。さては行者の怒りにでも触れてしまったかと、余りの不気味さに足を速めると、情けないことに足がもつれて転びそうになった。そんな経験を何度も重ねて、再び行者窟へ足を向けることはなかった。

 

 

 

それが先月、おくやま荘に投宿した際、日中の釣りも夜釣りの方も、体力の低下と限界を痛感して、当初の予定を速めに切り上げざるを得なくなった。翌日は釣りをしないで、早朝から泉津集落周辺を散歩がてらに歩いていると、集落の外れに建つ寺の入り口に分厚い木製看板が掲げられていた。看板には「行者道場」と墨書されていた。行者道場とは、まさか、あの行者窟と関係でもあるのだろうか。

 

おくやま荘に戻ったわいは、朝飯を食べながらおばさんに尋ねてみると、

「そうだよ、ナカムラさんそんなこと知らなかったの。」「大島では毎年、行者祭っていうのがあってね。全国から白装束の山伏や行者が大勢集まって、行者窟で役行者(エンノギョウジャ)の供養をするんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

役行者だって、古代史の世界で何度か耳にした名前ではある。

早速、調べてみると、役行者は修験道の開祖と言われる大物で、今から1300年ほど前の飛鳥時代に実在した役小角(エンノオヅヌ)という人物であった。大和の葛城山に籠って修行した結果、神通力を会得したといわれる超人で、今流にいえば、オリンピックのトライアスロンで金メダルが獲れるような超能力の持ち主だったと想像される。

しかし、西暦699年、朝廷に対して謀反を企だてたと密告されて、66歳にして大島に流されたとあった。大島に流されても、夜になると雲に乗って富士山に赴き修行を重ねたと言われているから大したものだ。孫悟空は金斗雲に乗ったが、役行者は銀斗雲に乗って山頂に立ったのであろうか。

そんなわけで、あの行者窟は修験道の聖地として出羽三山をはじめとする山伏に崇められているそうだ。

わいはその聖地で、背後の洞窟から、行者の霊に見守られながら釣りをしていたのだから、神通力のおこぼれにあずかっても不思議はないだろう。ある朝、目が覚めたら神通力を授かっていた。そんなこともあるかもしれないと思うこの頃である。