4年前ぐらいにとあるブログにて書いたのが、いまだに相当アクセスあるので、復刻版いきます。
ちなみにいきべんの挿入曲の選曲理由もこの物語をもってお答えとします。
夏季休暇のおつまみにどうぞ。
※当時のまだGFでなかった自分が書いたものです。多少荒削りな文章がありますが、
当時の作者のアーティスト性を重視し、そのまま過去のブログよりコピペしました。
ではいきます。
1968年のある日。
ハーレーダビッドソンに乗ったヒッピー風の男女が、
ニューヨークの郊外、ベゼルの丘にやってきました。
ウッドストックの住民から反対があって、
開催地候補を探していたらもう50マイルも離れた場所に来ていたのです。
「ここいいじゃない。池もあるわよ。」
「ともかく、ここの地主に会ってみよう。」
二人はヤスガーという地主の爺さんの家をピンポンしました。
「え?ここでお祭りだと?こんな片田舎に人がやってくるのかよ。
1000人集まれば大騒ぎな村だっちゅうに。
それでどのくらいの土地を貸して欲しいんだい?」
「じいさん。この丘まるごとだよ。」
「別にかまわないが、広すぎないかよ。
電気や水道とか便所とか、うちは貸してやらないぞ。」
「大丈夫ですよ。すべてなんとかします。」
「ところで何人集まるんだよ?」
「10万人は来ると思います。」
「え。そんなに?。おいおい、それじゃあ道は渋滞だよ。
買い物にいけなくなるじゃないか。困ったな。。それで
イベントに来る歌い手さんたちはどうするんだよ」
「ヘリコプターを飛ばしゃいいんだよ。爺さん。」
ヤスガー爺さんは、このヒッピーのカップルを、
まるで宇宙人のように見つめてます。
でも自分の息子と同じぐらいなのに、
若い表情をしていて、それなのに、ずいぶんしっかりした奴だと
関心してきました。
「爺さん。このイベントすごいんですよ。
ジャニスやジミも来るし、CSNYというどでかいのが結成されるんです。」
「なんだかよくわからんが、そんなに真剣なんだったら、この土地かしてやるよ。
あとで恨まれてもなんだしね。だけど、犯罪だけはやめてくれよ。
ここはヤギが殺されただけでえらい騒ぎになるんだからね。」
そして年があけました。
1969年8月15日、ついにウッドストックの開催です。
前日には参加予定のジェフベックグループが解散し、
代わりに急遽サンタナが呼ばれました。
ヤスガー爺さんは、ステージに立ってました。
「わしは今までの人生で20人以上の人の前でスピーチしたことはない。
大勢の人間の前で喋ることなんて死ぬまでないと思っていたよ。
ところが今、わしの前には40万人の君らがいる。
よく見ていると、君らは結構いい若者じゃないか。」
ヤスガー爺さんは観衆に向かって
慣れないピースサインをして手をあげてました。
二回の嵐に見舞われ、あたりは泥沼になってます。
あたりはマリファナの煙が立ち込めてます。
みんな、はだかになって、**ポ*を挿入しだしたりしてます。
若いのに**ぱ*が垂れているコもお構いなしで**ン*までまるだしです。
食料をちゃんと持ってきてる人なんか少なく、みんな空腹になってきました。
この問題を解決させてくれたのは、最初は快く思っていなかった周辺住民からの差し
実はみんな、うすうす気がついていたのです。
自分たちが生きていくすべを、外部の大人の力に頼っていたのだと。
オオトリのジミヘンの演奏のころには、
大群の観衆は散らかったゴミにかわってました。
月曜の朝ということが現実を呼び戻したのです。
こうして3人が死に2人が生まれたイベントは幕を閉じました。
終わってみればちゃんとライヴを聞けた人はごくわずかでした。
なにかが終わりを告げた。
あれはムーヴメントの始まりというより、むしろ記念碑だったんだ。
実際、12月にあったストーンズのオルタモンドのフェスでは、
ミックを射殺しようとした観客を警備員が刺殺するという事件がありました。
それから次の春まで、
ヤスガー爺さんの農場を車で通りがかると、
人間の排泄物の悪臭がたちこめました。
これが完全に消えるまでには、三年くらいかかりました。
さて最初に出てきたプロモーターの若者たち。
いきあたりばったりの企画もわざわいし、
それが逆に観客にとっては好都合となり、
フェンスはやぶられるは、なかなか会場に入れないわで、
ついにフリーコンサートとなりました。
興行収入はなくなったものの、
後のレコードとマーティンスコセッシによる映画が、
最終的に利益を産んだそうです。