安徳天皇は壇之浦海戦で水死したのか、 | さだー池城貞志のブログ

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安徳天皇は壇之浦海戦で水死か、

武士は自害を進んでするが、天子や庶民は自害を進んでするのか、武士は本分として死を恐れては戦は出来ぬ。
仏典に帝釈天の師になった、シダ国の野干(狐・ジャッカル)の話しがある。
虎の威を借りて、森の小動物をいじめていた、(虎に化けて、小動物を脅していた狐)草原のハンター・ジャッカルが森の主の虎に追われ、村はずれの深い井戸に落ちて、出られずに飢えて 死を意識した時、釈尊の過去世の産後の疲れで飢えた虎に我が身を食わせて菩提を得た話しを思い出した。産後の疲れで狩りが出来なくなり、七ひきの赤ちゃん虎に乳も飲ませず、母虎が飢え死寸前になり、ひもじさのあまり狂いそうに成った時。我が身を餓えた虎に食わせて、大慈悲で菩提を得て仏に成った、釈尊の過去世を思い出した。
深い井戸に落ちた狐のジャッカルは、私も釈尊の様に、七ひきの虎の子を護る為に我が身を餓えた母虎に食わせたいと、命の底から思った。そしたら、天が動き 反応して帝釈天を井戸に送った。
井戸から出された、狐のジャッカルは帝釈天から質問を受けた。
貴方はどの様にして、天を動かす決意をしたのかと尋ねられた。
狐は語った。有人楽生悪死・有人楽死悪生。
生きて長く苦しむより、我が身を死て他人を助けたい、と。釈尊の過去世を思い出し、私も釈尊の過去世の様に我が身を餓えた母虎に食わせたいと決意しました。と述べた。
帝釈天は軍人として、狐ジャッカルの決上した心意気に感銘を受け、その後 狐のジャッカルを師とした。
「死を怖れたら、魔軍と宇宙の平和をかけた戦は出来ぬと帝釈天は決意した。」

日本のサムライは死を恐れぬ、
だから、サムライの事を もののふ 武士と言う。仁義忠孝梯の為ならサムライは命をかける。

では、天子の天皇は自死はしないのか、聖人は横死はしないと言われている。
聖人は過去世の徳で危機を乗り越える。本懐を遂げた本仏は
釈尊や日蓮の様にあらゆる死難を乗り越えて成仏の本懐を遂げる。

「聖人は横死せず。」

平家の本筋の維盛と資盛は源氏と平家の決戦、壇之浦海戦の前に平家の血筋を残す為に30艘で前戦離脱して南海を目指して南下した。その事は公卿の九条兼実の日記「玉葉」に記されている。
平氏は讃岐(さぬき)の八島に帰り住んでいる、その勢 三千騎ばかり。  また維盛卿三十艘ばかり率いて南海をさして去って行った。

私は超能力者の知り合いが多いので
維盛と資盛の行き先を調べた事が何度も有ります。維盛は沖縄の先島諸島に行き、八重山諸島で新たな陣地を築く八重山諸島の開発に勤しんだ。維盛は八重山諸島の小浜島で石の様に身を護った。(蒋介石の名はその意味。
)。
西表島、石垣の米作りは南走平家、維盛の働き。
資盛は奄美大島から加計呂麻島に行き城を築いて、さらに南下して沖縄島に渡り、英祖王の祖父に成った。

幾多の超能力者や易の先生、池山豪先生によると舜天王は源為朝の子。英祖王は平資盛の孫。

北の日本本土は源氏が握り、南の琉球は平家が握ったと易で調べて、私に知らせた。

私は久高島の男のノロの書いた、琉球王統の系図を持っている、その中に天孫氏の四代目の次男が日本本土に渡り。日本の天皇の始まりに成った。
舜天王の父親は源為朝と、ちゃんと記されている。また。
舜天王の子孫が第二尚氏の内間金丸(尚円王)と記されている。
私は尚円王の息子、尚真王の子孫です。
私は物を書くときには薩摩にビビッき遠慮する心はまったくない。
琉球の歴史を編纂した羽地朝秀も尚家の血筋なら、薩摩にビビック事はない。
琉球が本筋だから、正々堂々の琉球の歴史を編纂する。

歴史を思い付きで語っては成らない。
舜天王の安徳天皇説は
ユタの戯れ言の範囲。

文証や歴史的積み重ねが大切です。
舜天の南走平家説はまだ考察が足りない。

資料 wikipediaより、

 平資盛に警護され豊後水道を南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとされる。安徳帝は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲けたという。同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはなかった。しかし、江戸時代末期、島津氏の使者が来島して箱を検分したが、長浜家にも中身を明かさなかった。昭和になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされる。この箱の中には三種の神器のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる天叢雲剣が入っていたのではないかという説もある。ところが、薩摩藩主である島津斉興の自筆による『虎巻根本諸作法最口伝規則』という文書(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵「玉里島津家文書」所収)の中に文政10年(1827年)硫黄島で八咫鏡が発見されて斉興によって上山城内に建てられた宮に安置されたと記されていることが判明した(上山城は現在の城山であるが、現在は宮や安置された鏡の所在は不明)[26]。硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた長浜豊彦(長浜天皇)なる人物がいた。