徳川家康と新田義貞の関係。 | さだー池城貞志のブログ

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徳川家康と新田義貞の関係
徳川家康は自称、 出自を新田系の世良田一族としている。
南北朝時代  新田義貞は同族の足利尊氏との 政権闘争の戦に負け、越前藤島(福井県福井市) 戦死してしまう。 
新田義貞は1333年5月8日、 後醍醐天皇から勅命を受け拝受した綸旨(りんじ・天皇の言葉が書かれている文書)を三度拝して倒幕の旗を挙げた。時は卯うの刻(午前6時頃)、その時主力の兵力はわずか150余騎で出陣したが 数日後、兵は20万に達し5月22日には鎌倉に入り北条幕府を倒した。二週間で20万の兵を動かし鎌倉幕府を終焉させた。
徳川家康の先祖は新田義貞の一族を名乗り、三河の領主松平の婿に成り 回りの村を配下に治めながら 三河守に成り三河国を治めた、徳川家康は今川 義元の戦死後 今川から離脱し 織田信長の配下、豊臣秀吉に 丸めこまれるながらも関東に根を張り 遂には天下人に成る。
徳川家康の先祖、徳阿弥の親、世良田有親の長阿弥は 南朝方の大将の新田義貞亡き後の南朝方の新田軍は蜘蛛の子を散らす様に、雲隠れする。武将の多くは出家して仏門に入る。徳川家康の先祖、世良田氏親子も時宗の僧、阿弥衆に成り布教の旅に出る。
徳阿弥親氏の名に氏の一文字が入ってのは、新田一族の証し、新田義貞の父親は朝氏、孫は貞氏。新田一族は足利尊氏との親戚関係で足利尊氏に縁の有る氏の名を譲り受けた。
徳阿弥の名に氏が付くのは武門の出自の証拠。
この前、琉球に流れ着いた源平を書き終わったら部屋に徳川家康の霊の存在を感じた。
私は何故、徳川家康の霊が私に用事なのかと考えた。
私は琉球源氏の血筋、徳川家康は八幡太郎義家の子孫、新田源氏を 名乗っている。
霊は
徳川家と新田一族との関係を書いてくれと頼んで来た。
私は自分の過去世をダウジングで確認し、易の先生にワンネス易でも再確認して貰っている。
幾多の過去世を知っている。
私の過去世で一人だけ、池山先生に過去世の名を明かすなと念を押された人物がいる。
私は時たま神が憑いた様にシンクロニシティ偶然一致が連続起こる事が有る。
池山先生から、その過去世の名を明かせば世間からひんしゅくを買うと 注意された人物がいる。
徳川家康の霊に私の過去世、新田義貞に用が有るのかと聞いて見た。そうだと言う。
私は徳川家康と新田一族との関係を書く事にした。
徳川家康の事を調べると、家康の残された手形に出会った。
家康の手形をネットで見た時、すぐに源氏と見抜いた。
手がこじんまりしている。
私と同じ手をしていた。
以前に新田義貞と勾当内侍との間に生まれた山吹姫の事を書いて事が有る。
山吹姫の子孫、宮下家の記事にもネットで出会った。
私は心情的には革新的で有るが、何故か保守の安倍晋三を支持している。
それは、安倍晋三の過去世が新田一族を名乗る徳川家康だからで有る。
過去世が徳川家康ならば心根は悪人では無い。
又、社会を維持する心は 「 仁義礼智信忠孝悌(じんぎれいちしんちゅうこうてい)」と思っている。主君に忠、親に孝、兄弟に愛情の悌 。仁義、礼、知恵、信じる心、は人間が道を外さない生き方の基本。  仁義礼智信忠孝悌を 心に留めて生きれば神仏から護られて幸せな人生を送れる。
だから、私は国主を蔑ろにはしない。
徳川家が布教の僧、阿弥衆から天下人に成れたのは、親子愛、兄弟愛、村人、領民を護る 愛。「 仁義礼智信忠孝悌(じんぎれいちしんちゅうこうてい)」を基本に生きたから、新田一族、源氏一族は徳川家を護った。
疑いか、信じるかの 二者択一を求められた時、私は信を取りたい。嘘は必ず崩れて行く。
信は不変で強い。信は結晶体に成る。
疑いは脆く全てを破壊して行く。
私は徳川家康が源氏を名乗るなら、徳川家康は源氏と信じる。
 徳川家は264年の間、日本を安泰にさせた。
徳川家は並々ならぬ人徳を持っている。
源氏の印で有る。

資料をUP します。

〇 ちなみに国良親王とは、後醍醐天皇の皇子・宗良親王と新田義貞の娘・山吹姫との間の子である
 。内侍は髪を下ろして儀源尼となり、この柊の下に庵を結んで隠棲し、貞治四年(1365)二月一日に五十五歳で世を去ったという。以前は内侍の墓標と称する板碑があったそうだ。ここに儀源尼と山吹姫が住んでいたということは、地主である宮下家に伝わる古文書や遺品によって確かなことと思われる。
古文書は内侍が書き残した「儀源尼秘記」と山吹姫の「覚心尼秘記」である。前者には後醍醐天皇の即位から長慶天皇の即位まで、後者には興国元年(1340)から永享十二年(1440)末までの事項が書かれている。後者の表紙には「この書は正平九年より五百年間禁書なり」と添え書きがある。足利幕府の眼に触れることを恐れたのであろう。
遺品には義貞が護良親王から賜った綸旨を始め、義貞の木像(高さ七寸八分、具足を脱いで寛いだ姿。内侍が刻ませて仏壇に飾った)、釣舟花器、千島の香炉、鏡、松影の硯、檜扇、五ッ衣、宗良親王の色紙、銘天陣の槍、銘友成の太刀などがあったが、寛永年間に徳川家から提出を命じられたり、宝暦年中の火災によって失われたりしたという。
 国良王と新田貞氏(義貞の孫)が得度して時宗の僧となり、総本山に修行の為に来る事に関して異論をはさむ者は寺内には一人もいなかった。遊行寺は又、北朝や幕府にも尊崇されていた為、その境内は治外法権が認められ、鎌倉府たりともその法域を犯す事は許されなかった


 〇 宮城谷昌光さんの『古城の風景・Ⅰ』(新潮文庫)が教えてくれたのである。
 そこで,もう一度,この『古城の風景・Ⅰ』の記述に立ち返って考えてみることにしよう。
 徳川家康の出自である松平氏の始祖は親氏(ちかうじ)。かれは徳阿弥と称し,父の有親(長阿弥)と一緒に三河にやってきて称名寺に身を寄せた。この親子,すなわち長阿弥と徳阿弥は連歌の達者で,子の徳阿弥は連歌によって運命を啓(ひら)くことになる。
 「父の没後,徳阿弥は矢作(やはぎ)川をさかのぼるかたちで松平郷にはいり,その村の小豪族というべき松平太郎左衛門尉信重(さえもんのじょうのぶしげ)が催した連歌の会をたまたま見物したところ,歌を書きとめる役になってもらいたいと懇望されてその役をつとめたことが縁となり,女婿(じょせい)となって松平家にはいったのである。」
 こうして徳阿弥は松平親氏として,松平一門の始祖となる。この家系の直系の子孫として徳川家康が誕生する。以後,松平家と連歌は切っても切れない関係がつづく。


 〇 新田氏と松平氏のつながりはとぎれとぎれに出てくる。『藤沢寺記』によれば、「至徳二年、新田一門過半波合にて討たれ、新田相模守義隆父子、有親父子、わづかに逃れ奥州に下り、有親は塩釜のあたりにかくれ居給ひけるが、小山若犬丸の催促にしたがひ、宮方の徒、馳集りしに、同六月、鎌倉殿氏満、大軍にて発向あり、新田.小山、田村等悉く退散す。有親ひそかに本国新田祝村に帰住し給ひしかも、鎌倉の捜索厳しければ、自害し給はんとせられしとき、護身宇賀神の霊夢に感ぜられ、その時、遊行十二世尊観上人、たまたま岩松青蓮寺に旅宿あしかば、その弟子となり、有親、親氏、泰親、三人とも名をかへ姿を改め給う」とある。  その後、有親は長阿弥に、親氏は徳阿弥と遊行僧となり放浪することになる。では、両名が何故三河にいったのかは『称名寺略記』に
 「徳川有親および其長男親氏従士石川孫三郎と本刹に来住す、蓋し孫三郎は本刹住持の兄たるの故も以ってなり、有名なる牧渓筆『渡宋天満宮』は当時有親公の寄進にかかる後、親氏は松平村に移り有親は亨徳元年本刹に於て卒す」とある。称名寺は時宗の寺であり、上野国から三河国へきた理由が述べられている。
 時宗本山藤沢の遊行寺にある『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』の自空上人の項にも、親氏親子の事が記されている。同書には、親氏親子は石川孫三郎に従って三河に来たことが述べられいる。また、親氏が長男で泰親が次男で兄弟であったことも説明されている。

私は徳川家は新田一族の世良田氏と信じる。