ネタバレ・曲バレありますからね!言いましたからね!!
田村麻呂は心の声が聞こえてしまう能力を持ち、それを桓武天皇から賜った宝玉の力により抑えて生きている。軍師として他者が口に出さない気持ちを知れることは彼の最大の利点であり、宝玉があれば生きることが困難ということもない。現に田村麻呂は軍師としてその力を利用し尽くしている。
阿弖流為は無意識に他者を傷付けてしまうほどの怪力を持ち、その力を持て余している。阿弖流為にとって己が怪力は制御不能の困った能力であり、神の力を頼ってやっと逃れることの出来るもの。田村麻呂のように意思のままに遣ったり遣わなかったりということは出来ない。
両者の違いはとても大きい。
まず田村麻呂の力は制御出来る。しかもその制御方法が宝玉の付け外しというというお手軽さであり、宝玉を与えてくれた相手は桓武天皇。人間である。また、「他人の心の声が聞こえる」という対人間のスキルなのである。
対する阿弖流為。暴走して仲間を傷付けてしまう、全く制御の利かない力を持つ。物理的な力なので、対人間でなくとも発揮出来る。怪力をもってすれば木を倒すことも容易であることは蝦夷たちの言葉から読み取れる。
つまり田村麻呂の力は「人間に対する力」であり、阿弖流為の力は「万物に対する力」なのだ。阿弖流為の持つ怪力は度を超えており、阿弖流為の優しさが無ければ全てを壊し尽くせるほどのものだ。田村麻呂の性格が歪んでしまったのは持って生まれた力のせいだが、阿弖流為は力と性格が全く繋がっていない。
結論から言ってしまうが、私は今回の納祭のストーリーを「人の子・坂上田村麻呂と神の子・阿弖流為の邂逅」だと考えた。
対人間の力を持ち朝廷軍で己を磨いてきた田村麻呂。対万物の力を持ち神と人から注がれる愛の中で生きてきた阿弖流為。朝廷という造られたモノの中で作られた感情を受け止めて過ごしてきた田村麻呂。自然と共生する蝦夷の集落で仲間たちと時にぶつかりながらも楽しく過ごしてきた阿弖流為。人に裏切られ傷付いてきた田村麻呂。自分の力が引き起こす悲劇に傷付いてきた阿弖流為。
二人が出会うことにより人の子・田村麻呂はその力と共に生きることを選び、神の子・阿弖流為はその力と共に死ぬことを選んだ。
なぜ阿弖流為だけがアラハバキに愛されているのか?ヨンと共に感じていた疑問が、たった一曲によって解き明かされる。『怪獣のバラード』だ。今回の納祭を観て『怪獣のバラード』が印象に残らなかった人はいないだろう。阿弖流為が死を覚悟して朝廷軍へと向かっていくことを蝦夷たちが受け止め支えると決めたシーンで歌われる曲である。
『怪獣のバラード』は人里離れた場所にいた怪獣が「人を愛したい」と望み、今までの住処から離れていく様を歌った曲だ。怪獣はそのまま阿弖流為のことだろう。怪獣・阿弖流為を誘う鈴の音を立てたキャラバンは蝦夷たちのこと。そうなると、阿弖流為はどこかから蝦夷たちのところへとやってきたことになる。
大きな怪獣がのんびり暮らせる場所とは一体どこなのか?怪力を持ちながら争いを嫌う「怪獣」が心穏やかに暮らせるところとは。それは天界なのではないだろうか、と考えた。
アラハバキは間違いなく神である。だからこそ、雷を落とすことが出来る。蝦夷たちや物部兄弟から愛される。力を取り上げることも与えることも出来る。それと比べて阿弖流為。怪力という特別な力を持っている。蝦夷たちから不満をぶつけられることもあるが、結局のところは愛されている。ヨンの力を借りずともアラハバキを呼び出せる。そして、アラハバキにタメ口を叩いても許される。アラハバキとの共通点が多い阿弖流為は、アラハバキ同様、神なのでは。
朝廷軍と蝦夷たちは反発しあう存在である。蝦夷である阿弖流為が朝廷軍の田村麻呂に対し、宝玉の力の有無に関係なく心を開いたのは阿弖流為が「怪獣」であるからだろう。怪獣は「人を愛したい」のだ。蝦夷を愛したいのではない。阿弖流為にとっては蝦夷も朝廷も関係は無い。人の子に変わりはないから。
田村麻呂は阿弖流為という存在に衝撃を受ける。心の声と口から出る声が全く同じであり、隠している考えもただ「おにぎりが食べたい」というだけ。田村麻呂にとって信じられない人物であったと考えられる。
都において、心の声と口から出る言葉が同じということはそうそう無いであろう。むしろ本心とは真逆の発言をする人も多かったのではないだろうか。そんな人々の中で暮らしてきた田村麻呂にとって、桓武天皇から賜った宝玉がどれだけ有難いものだったことか。宝玉を手にしたことにより、田村麻呂は一つの苦しみから解き放たれた。しかし、人間が本心と違う発言をすることは変わりない。宝玉を身に付け心の声を聞いていない時でさえ、田村麻呂は相手の言葉を信じようとはしないままであった。
そんな田村麻呂の一種の期待を裏切った阿弖流為。対立する集団のリーダーである、ということ以上に田村麻呂にとって特別な存在になったことは想像に難くない。たった一度の出会いにより、田村麻呂の世界を変えてしまった阿弖流為。しかしそんな阿弖流為が、嘘をついてきた。自分を騙そうとしてきた。誰の裏切りを受けた時にも、驚きはしても怒りはしない。そんな田村麻呂が怒りに顔を歪ませる。
阿弖流為が命を賭して争いを収めようとしていると知った田村麻呂は、怒りに任せて振るっていたその手を止める。馬鹿としか思えない阿弖流為が自分の能力の裏をかいたことに驚いたと共に、己が力を過信した自分を悔やんだのかもしれない。阿弖流為は田村麻呂の持った刀を自らの体に突き刺すのだが、田村麻呂はその行動にも驚きを隠せない。蝦夷の未来を己が首と引き換えに手に入れようとする阿弖流為の自己犠牲の精神を受け止めることが出来なかったのだろうか。
田村麻呂にとって阿弖流為とは何だったのだろう。人を信じない田村麻呂に初対面でありながら心のままに接し、裏切ったと見せかけその実、身の回りの人全てを救った。自らを欺く周囲に耐え兼ねて心を閉ざす田村麻呂に、心のままに接する阿弖流為。立場がどうとか、どう思われるかとか、そんなことはお構いなし。最期は手に余る力をただ争いを終わらせるためだけに遣い、散っていった。自分の力を生きる為に遣ってきた田村麻呂に、阿弖流為の姿はどう映ったのか。それを表すのが最後のシーンだろう。宝玉を自らの手で砕き、他人の心の声を絶えず聞きながら生きることを決めた田村麻呂。力と共に散った阿弖流為とは同じ道を選ばない。抑えることも、もうやめる。その力と向き合い、共に生きていく。田村麻呂自身にそう決意させたのが、阿弖流為であった。
阿弖流為サイドから見れば「争いを好まない阿弖流為が心のままに生き遂には命と引き換えに争いを収めた」話。田村麻呂サイドから見れば「己が力に振り回され心を閉ざして生きてきた田村麻呂が力と共に生きることを決意する」話。阿弖流為は望みを叶え、田村麻呂は生きる道を見つけた。
ハッピーエンド、ですね。ええ話や…
しっかし三上真史すんごい美形!恐ろしく綺麗!!何だあの人!!!花道での近距離横顔、ありがとうございました!!!!!
田村麻呂は心の声が聞こえてしまう能力を持ち、それを桓武天皇から賜った宝玉の力により抑えて生きている。軍師として他者が口に出さない気持ちを知れることは彼の最大の利点であり、宝玉があれば生きることが困難ということもない。現に田村麻呂は軍師としてその力を利用し尽くしている。
阿弖流為は無意識に他者を傷付けてしまうほどの怪力を持ち、その力を持て余している。阿弖流為にとって己が怪力は制御不能の困った能力であり、神の力を頼ってやっと逃れることの出来るもの。田村麻呂のように意思のままに遣ったり遣わなかったりということは出来ない。
両者の違いはとても大きい。
まず田村麻呂の力は制御出来る。しかもその制御方法が宝玉の付け外しというというお手軽さであり、宝玉を与えてくれた相手は桓武天皇。人間である。また、「他人の心の声が聞こえる」という対人間のスキルなのである。
対する阿弖流為。暴走して仲間を傷付けてしまう、全く制御の利かない力を持つ。物理的な力なので、対人間でなくとも発揮出来る。怪力をもってすれば木を倒すことも容易であることは蝦夷たちの言葉から読み取れる。
つまり田村麻呂の力は「人間に対する力」であり、阿弖流為の力は「万物に対する力」なのだ。阿弖流為の持つ怪力は度を超えており、阿弖流為の優しさが無ければ全てを壊し尽くせるほどのものだ。田村麻呂の性格が歪んでしまったのは持って生まれた力のせいだが、阿弖流為は力と性格が全く繋がっていない。
結論から言ってしまうが、私は今回の納祭のストーリーを「人の子・坂上田村麻呂と神の子・阿弖流為の邂逅」だと考えた。
対人間の力を持ち朝廷軍で己を磨いてきた田村麻呂。対万物の力を持ち神と人から注がれる愛の中で生きてきた阿弖流為。朝廷という造られたモノの中で作られた感情を受け止めて過ごしてきた田村麻呂。自然と共生する蝦夷の集落で仲間たちと時にぶつかりながらも楽しく過ごしてきた阿弖流為。人に裏切られ傷付いてきた田村麻呂。自分の力が引き起こす悲劇に傷付いてきた阿弖流為。
二人が出会うことにより人の子・田村麻呂はその力と共に生きることを選び、神の子・阿弖流為はその力と共に死ぬことを選んだ。
なぜ阿弖流為だけがアラハバキに愛されているのか?ヨンと共に感じていた疑問が、たった一曲によって解き明かされる。『怪獣のバラード』だ。今回の納祭を観て『怪獣のバラード』が印象に残らなかった人はいないだろう。阿弖流為が死を覚悟して朝廷軍へと向かっていくことを蝦夷たちが受け止め支えると決めたシーンで歌われる曲である。
『怪獣のバラード』は人里離れた場所にいた怪獣が「人を愛したい」と望み、今までの住処から離れていく様を歌った曲だ。怪獣はそのまま阿弖流為のことだろう。怪獣・阿弖流為を誘う鈴の音を立てたキャラバンは蝦夷たちのこと。そうなると、阿弖流為はどこかから蝦夷たちのところへとやってきたことになる。
大きな怪獣がのんびり暮らせる場所とは一体どこなのか?怪力を持ちながら争いを嫌う「怪獣」が心穏やかに暮らせるところとは。それは天界なのではないだろうか、と考えた。
アラハバキは間違いなく神である。だからこそ、雷を落とすことが出来る。蝦夷たちや物部兄弟から愛される。力を取り上げることも与えることも出来る。それと比べて阿弖流為。怪力という特別な力を持っている。蝦夷たちから不満をぶつけられることもあるが、結局のところは愛されている。ヨンの力を借りずともアラハバキを呼び出せる。そして、アラハバキにタメ口を叩いても許される。アラハバキとの共通点が多い阿弖流為は、アラハバキ同様、神なのでは。
朝廷軍と蝦夷たちは反発しあう存在である。蝦夷である阿弖流為が朝廷軍の田村麻呂に対し、宝玉の力の有無に関係なく心を開いたのは阿弖流為が「怪獣」であるからだろう。怪獣は「人を愛したい」のだ。蝦夷を愛したいのではない。阿弖流為にとっては蝦夷も朝廷も関係は無い。人の子に変わりはないから。
田村麻呂は阿弖流為という存在に衝撃を受ける。心の声と口から出る声が全く同じであり、隠している考えもただ「おにぎりが食べたい」というだけ。田村麻呂にとって信じられない人物であったと考えられる。
都において、心の声と口から出る言葉が同じということはそうそう無いであろう。むしろ本心とは真逆の発言をする人も多かったのではないだろうか。そんな人々の中で暮らしてきた田村麻呂にとって、桓武天皇から賜った宝玉がどれだけ有難いものだったことか。宝玉を手にしたことにより、田村麻呂は一つの苦しみから解き放たれた。しかし、人間が本心と違う発言をすることは変わりない。宝玉を身に付け心の声を聞いていない時でさえ、田村麻呂は相手の言葉を信じようとはしないままであった。
そんな田村麻呂の一種の期待を裏切った阿弖流為。対立する集団のリーダーである、ということ以上に田村麻呂にとって特別な存在になったことは想像に難くない。たった一度の出会いにより、田村麻呂の世界を変えてしまった阿弖流為。しかしそんな阿弖流為が、嘘をついてきた。自分を騙そうとしてきた。誰の裏切りを受けた時にも、驚きはしても怒りはしない。そんな田村麻呂が怒りに顔を歪ませる。
阿弖流為が命を賭して争いを収めようとしていると知った田村麻呂は、怒りに任せて振るっていたその手を止める。馬鹿としか思えない阿弖流為が自分の能力の裏をかいたことに驚いたと共に、己が力を過信した自分を悔やんだのかもしれない。阿弖流為は田村麻呂の持った刀を自らの体に突き刺すのだが、田村麻呂はその行動にも驚きを隠せない。蝦夷の未来を己が首と引き換えに手に入れようとする阿弖流為の自己犠牲の精神を受け止めることが出来なかったのだろうか。
田村麻呂にとって阿弖流為とは何だったのだろう。人を信じない田村麻呂に初対面でありながら心のままに接し、裏切ったと見せかけその実、身の回りの人全てを救った。自らを欺く周囲に耐え兼ねて心を閉ざす田村麻呂に、心のままに接する阿弖流為。立場がどうとか、どう思われるかとか、そんなことはお構いなし。最期は手に余る力をただ争いを終わらせるためだけに遣い、散っていった。自分の力を生きる為に遣ってきた田村麻呂に、阿弖流為の姿はどう映ったのか。それを表すのが最後のシーンだろう。宝玉を自らの手で砕き、他人の心の声を絶えず聞きながら生きることを決めた田村麻呂。力と共に散った阿弖流為とは同じ道を選ばない。抑えることも、もうやめる。その力と向き合い、共に生きていく。田村麻呂自身にそう決意させたのが、阿弖流為であった。
阿弖流為サイドから見れば「争いを好まない阿弖流為が心のままに生き遂には命と引き換えに争いを収めた」話。田村麻呂サイドから見れば「己が力に振り回され心を閉ざして生きてきた田村麻呂が力と共に生きることを決意する」話。阿弖流為は望みを叶え、田村麻呂は生きる道を見つけた。
ハッピーエンド、ですね。ええ話や…
しっかし三上真史すんごい美形!恐ろしく綺麗!!何だあの人!!!花道での近距離横顔、ありがとうございました!!!!!