平成27年10月17日
(土) 第9日目
6:30 旅荘・きくやを発ち、月夜御水庵に向かう。
新野の集落を過ぎて、長閑な農村の道を進むと、「暮石の夫婦岩の由来」と書かれた看板があり、
昔、弘法大師が四国霊場を開くために、この地を訪れたとき、夕方、誰も居ないのに話声がするので付近を見渡すと、「日が暮れるぞう」と大岩が小岩に言っていました。
お大師様はこの土地を暮石、岩を夫婦岩と名づけられました。
その後、道路工事のため位置は変わりましたが、「四国の道」の話として残っています。
そこを過ぎると山が迫ってきて、きれいな集落名「月夜」に入ると月夜御水庵に着く。
この集落に令和4年11月に「ヘンロ小屋月夜・第58号」が完成しました。
弘法大師が杖で祈祷すると水が湧き出て、闇夜が満月になる等の伝承が残っており、月夜の地名もこの伝承による。
小屋の特徴は 満月を示す円形の屋根と中央の明り取りの天窓、背もたれの木は88本と言われています。
ヘンロ小屋月夜
番外霊場 月夜御水庵
本尊 薬師如来
古いお堂と苔生した石仏がずらりと並んでいる。
昔、弘法大師が四国修行の折、ここに足を止められ手を洗おうとされたが辺りに水が無かったので、岩肌を突いたところ清らかな水が湧き出た。
その水で体を拭かれると元気になられ、三日月がかかっていたので、裏山で野宿することになった。
やがて三日月は山の向こうに入り、光がなくなったので、大師がお経を唱えたところ、三日月は元に戻り一夜を過ごすことが出来たと言われ、地名を「月夜」と名付けられた。
その後、各地の人々が「加持水」として使うようになり、「お水大師」と伝えられている。
月夜御水庵
境内には天然記念物に指定された、「月夜御水大師の大杉」もある。
高さ 31m
幹の周り約 6.25m
樹齢約1000年と伝承されている県内でも数少ない大杉で、すべての枝は一度下を向いてから、上に伸びていることから、一名「逆さ杉」と云われる。
大杉
伝説によると大師が薬師如来・不動明王を刻み、その杉を後世に残す為、枝を挿したと云われる。
私も弘法大師に倣って、自然の宿「月夜御水庵」の境内にテントを設営して野営した経験がある。
月夜御水庵に今日の安全な旅を祈念して、弥谷観音に向かう。
山間の古びた県道を蛇行しながら歩く。車にも人にもほとんど逢わない県道は30分程で福井川に架かる鉦打橋を渡る。
川沿いの道を右折して少し歩き、遍路標識に従い崖下から雑草の中を登ると国道55号線と合流した。
暫く進み長さは301mと距離は短いが、ガードレールのある鉦打トンネルを抜けると「ヘンロ小屋4号・鉦打」がある。
鉦打トンネル
小屋は総檜造り、地元産の瓦葺きで、耐久性にも配慮した設計です。建物のイメージは地元の「尻無し貝伝説」に由来します。
ヘンロ小屋鉦打
川を歩いて渡る住民が、尖った巻貝に難儀している話を聞いた弘法大師が、尖った貝の尻を無くして助けた伝説。
この伝説は岩本寺にも伝えられている。
ダムを横切る橋の袂の「弥谷観音まで500m」の標識で、右折して橋を渡りダム湖に沿って、少し行くと弥谷観音堂がある。
平等寺奥の院 弥谷観音堂
ご本尊 如意輪観音
開基 弘法大師
弥谷観音堂
伝承によれば、延暦12年弘法大師が19歳の時、この地を訪れ岩肌に如意輪観音を刻みつけ、17日間の厄除けの護摩供養をしたのが起こりであるという。
七福神
大師は満願の日に七不思議を残して立去ったと言われる。七不思議は「不二地蔵・竺地蔵 ・ 四寸通し・硯石・ゆるぎ石・日天月天の跡 ・胎内くぐり」であるが謂れは分らなかった。
ゆるぎ石
昭和30年頃、現在地より下方に祖谷山明宝院という寺院が存在していたが焼失して廃寺となっていた。
平成6年、福井ダムの治水工事に伴い観音堂を再興し現在地に移設した。
観音堂の下は公園となっており、東屋の休憩所とトイレが設置されていた。
休憩所
参拝を終え、薬王寺へ向かう。来た方向と反対に進み再び国道に合流する。
ここから薬王寺へは2つのルートがある。
ひとつは国道から由岐に向う県道25号線を進み、標高120mの由岐坂峠を越えて、海岸線を由岐の集落、木岐の集落を経て向かう道。
距離は2.7km程長いが、展望景観の優れた室戸阿南国定公園は疲れを忘れさせる。
辺川休憩所
海岸線を行く私は、国道の下を潜って小野集落から、南に向かう県道25号線を進む。
福井の集落外れにある辺川休憩所から少しずつ高度を上げ、標高120 m の由岐坂峠で美波町に入る。
由岐坂峠にも休憩所が在り、朝から7km程歩いるので暫く休憩した。
由岐坂休憩所
峠を過ぎると遥か彼方に太平洋が見え、遍路で初めて見る海の風景である。
次第に由岐の街並や海を間近かに望むことが出来るようになる。
田井ノ浜休憩所
景色のよい道を下りて行くと由岐駅前に出て、由岐の集落を抜け、小さな峠を回り込むと砂浜が続く田井ノ浜海岸に出た。久し振りの浜辺は潮の香りがして爽やかな心地がする。
田井ノ浜
田井ノ浜にも休憩所がある。辺川集落から恵比須浜集落まで、距離にして10km程度の遍路道に合計6ヶ所も休憩所がある。
白浜休憩所
新しく大きさは大小様々であるが、案内板によると「宝くじの普及宣伝事業」として設置されたと示されているが、歩き遍路にとっては本当に有り難い施設である。
案内板
木岐から県道を離れ海沿いのに進むと、遍路道に入って高度を上げ、高い位置で再び県道に合流する。
遍路道沿いに安政地震津波石灯籠がある。
安政地震は嘉永7年11月5日午後4時頃発生マグネチュード8.4、数丈の大津波となり房総より九州に至る沿岸を襲う。
木岐浦では203戸のうち190戸流出、11人死亡と伝えられる。
この碑には「波の高さ4丈余、大地震の節は油断なきよう記しておく」と刻まれている。
津波石灯籠
また、この遍路道は「俳句の小径」と名付けられて、道沿いには俳句が書かれた木柱が何10本も立てられている。
一般から応募された作品を由岐町で選考して、掲示しているようである。
一句、書き留めてみた。
どんぐりを 杖で転がす
遍路道
俳句の小径
この辺りは砂浜の入り江と険しい岬が交互に連続する地形である。小さなの集落を抜けると自然豊かな山となり、それを越えると再び集落に入る。
集落、山、集落、山と景色が変わっていくので、歩いていても疲れを忘れさせる。
所々に残る古い石造物も、程よいアクセントを与えてくれる。
山座峠
案内板
県道に合流して暫く行くと山座峠の先に休憩小屋があり、その左から野道の遍路道が下っている。
遍路道
遍路道を下ると、海辺の恵比須浜の集落に着く。
恵比須漁港
更に県道に戻って、暫く進むと恵比須浜漁港が在り、恵比須浜休憩所と恵比須浜キャンプ場がある。
恵比須浜休憩所
今後の参考にと建物内を覗いてみたが、営業している様子ではない。おそらく夏季のシーズンのみ営業しているのであろう。
野宿遍路として施設があると低料金で宿泊できるか確認するのが習性のようになってしまう。
キャンプ場
以前、小豆島遍路の時、キャンプ場で一夜過ごしたが低料金で快適であった。
恵比須浜からは日和佐湾に面した海沿いの道となり、2.0kmほど行くと恵比須洞がある。
日和佐町周辺の海岸は打ち寄せる太平洋の荒波に浸食されて、到る処に大小の海蝕洞が見られる。
この恵比須洞は標高52mの岩山に、内部が幅32m、高さ31mの半円状に貫通しており、県内では最大のものである。
荒波が押し寄せると洞窟で轟音が発し、出口から噴出する様は実に壮観であると言われている。
恵比須洞
山上に展望台が在り、夫婦和合の神として恵比須神社が祭られて、恋人同士が祈念すると必ず恋が成就すると云われている。
洞窟に天然記念物である「イワツバメ」も棲息していると説明されていた。
恵比須洞
恵比須洞を過ぎ暫く歩くと恋人岬が在り、波切不動明王の祠と東屋があった。
波切不動明王は弘法大師が唐からの帰途、嵐に遭った時に祈願して現れた不動明王が、剣で押し寄せる波を切り裂き、難を逃れたことに由来する。
故に航海安全に霊験があるとされている。
波切不動明王
また、日和佐は古くから海上交通が発達し栄えた町であり、明治 ・大正時代、徳島・阪神への汽船はここから見える立島付近に停泊し、乗客は大浜海岸より小船に乗り、汽船に乗船したようである。
東屋
大浜海岸が一望出来るこの地は、別れを惜しむ恋人が旅の安全と再会を願い、沖に消え行く汽船に向かい手を振ったと言う。
今も多くの恋人が潮騒を聞きながら愛を語る恋人岬として知られている。
大浜海岸
日和佐・うみがめ
県南の海岸にはリアス式の沈降性海岸が多いが、
大浜海岸は幅約80m、
全長500mの白砂の美しい浜が弓なりに開いて、海亀が産卵のため上陸する海岸として有名で、海岸近くにはウミガメ博物館もある。
海岸を回り込むと、日和佐の市街地である。
以下は国道を歩いた記録
「ヘンロ小屋鉦打」から2.2k進むと休憩所が在り、星越トンネルを越えると北河内谷川に沿って蛇行しながら下っていく。
休憩所
星越トンネル
人家も少なく勿論、商店もなく渓谷というほどでもない単調な道が続く。
幸い、「日和佐自動車道」の開通で車が極端に少なく、トンネルといえども安全である。
久望トンネル、一ノ坂トンネルをトンネルを抜けると、薬王寺まで6.0kmの処にも休憩所がある。
休憩所
更に薬王寺まで2.5km程の地点の「ドライブイン海賊舟」の敷地に「ヘンロ小屋第52号日和佐・海賊舟」がある。
土地は「海賊舟」の経営者が提供され、ドライブインが舟の形をしているので、小屋も舟をイメージしたものになっています。
ベンチの背もたれは遍路にちなんで88本の角材を縦に並べている。
ヘンロ小屋
ヘンロ小屋からは薬王寺
まで1時間弱である。