マーダーミステリー・オンラインセッション! -4ページ目

マーダーミステリー・オンラインセッション!

 最近流行り始めている『マーダーミステリー』をDiscordを使ってオンラインで遊ぶやり方などについて紹介しています。
「マーダーミステリーってなに?」「Discordってなに?」「イケメンさんすてき抱いて!」などの疑問にお答えできるようがんばります

 

 こんにちはこんばんは子猫ちゃん、イケメンです。

 いえね、実は政治的な話については、SNSでもこのblogででもできるだけ言及しないようにしていたんだけどね。ちょっとこの件についてだけは、ホントに真面目に取り組まないといけないと思ってるんすよ。マーダーミステリーっていうゲームが本当に一般化する前にね。

 別に問題意識として共有できないことを責める意図は全く無いので、興味がなければ読み飛ばしてもらって大丈夫です。ただ、問題として提示しておく必要があったので、私見を真面目にまとめます。少し長いんですが、本当はみんなに読んでもらいたいです。

 表現規制問題について。

 

表現規制による実害

 日本って国は、同人文化が根づいており、非常に数多くのアマチュア創作家がいる国です。

 これは世界的に見ても全く珍しい話で、ジャンルを問わずこれだけ多くのアマチュア創作家が存在し、個々に作品を発表できている国というのは、他にありません。

 そして、この裾野の広さこそが、日本をコンテンツ大国として成立させている土壌になっています。

 この土壌の大元には、「表現の自由」という概念が憲法で保証されているという事実があります(第二十一条)。

 

 この事実は、表現者のみならず、表現を享受するすべての人々にとって幸福なことです。

 何故なら、これは世界的に見て、決して当たり前のことではないからです。

 しかしながら、その本邦においてすら、憲法を無視し、表現を規制しようとする動きは常に起こり続けていました。数十年前であれば永井豪先生や手塚治虫先生の漫画作品の焚書事件が有名です。そして直近でもそうした問題は幾度も起こり続けています。ですが、あくまで表現の自由という概念を重視する動きがあり、大きな問題には発展せずにいます。

 

 ところが、です。

 創作物の販売を担うプラットフォームの、インターネットを介するグローバル化から、近年では海外勢力の介入が現実に起こっています。

「特定作品におけるクレジットカード決済の拒否」という問題が、現在進行で起こっていることについてはご存知でしょうか?
 発端は、アダルトコンテンツを扱うオンラインサイトなどにおいて、クレジットカード会社が「取り扱いを停止する」と一方的な通達を行った事でした。

 本件については、日本の議員がVISA本社ならびにビザ・ワールドワイド・ジャパン社に確認を取り、「本社の意向とは異なる」旨の言質を取っています。

 本件についてここではこれ以上の掘り下げを行いませんので、詳細が知りたい方は是非、「クレジットカード会社等による表現規制」等で検索して下さい。

 これを読んで「自分には関係のない話だ」と思った方も少なからずいるでしょう。

 アダルトコンテンツの話は自分には関係ない。アダルトコンテンツは自分には必要がないので無くなっても問題ない、と。

 この感覚そのものは決して一般から乖離したものではありません。

 そして、これこそが、表現規制問題における、最も難しいポイントなのです。

 

 例えば、本blogの主題であるマーダーミステリーについて。

 マーダーミステリーが中国から本邦に入ってきたことはご存知の方も多いかと思います。

 中国で巨大市場を形成したことも、主にマーダーミステリーを普及したい立場(筆者を含みます)にとって都合が良い事実なので、しばしば喧伝されており、これまたご存知の方も多いでしょう。

 しかしながら、2022年時点では既に、「青少年に悪影響を与える」と問題視され、23年には条例が施行されています。このことについて語られることはほとんどありません。

 

 

 中には消防上の問題点の指摘や、流行に伴い増えてきた悪徳業者に対する、致し方なかろうと思われる規制も含まれます。しかし、ここで注視したいのは、「シナリオの内容に対する規制と検閲」を含んでいるという点です。

 シナリオの内容には「脚本は健全かつ明るい内容でなければならない。また、社会主義理念に沿った明るい内容の脚本を奨励する 」という制限を含んでおり、業者は事業内容のみならずシナリオ内容まで事前申請を必要としています。

(当局の規定した基準に沿わないシナリオは、そもそも販売や公演ができないという意味です)

 

 ご存じの方もいらっしゃるかも知れません。中国ではこうしたマーダーミステリーのみならず、BL(ボーイズラブ)についても実際に規制を始めており、最近では大勢のBL作家が投獄されたというニュースも報じられました。

 こうした動きの実際の現状については、残念ながら筆者は明るくはありませんので、有識者のお話を伺いたいと常に思っています。が、なかなか聞こえてきませんね、こうした話は。

 

 

 

 もちろん、これらは日本の話ではありません。

 ですが、本邦でも、「青少年への悪影響」を錦の御旗に、表現を規制しようとする動きは決して少なくありません。企業を脅迫し、自身にとって不要である表現を規制「させよう」とする、憲法に反した行いは跡を絶ちません。

 ごく最近でも、steamで販売されるインディゲームについてそうした動きが起こっています。

 

 マーダーミステリーは、基本的にインモラルなゲームです。

 その多くは殺人事件を題材にし、そして多くの場合、殺人事件の当事者の立場を体験させるというゲームです。

 いつなんどき、「青少年育成に悪影響を及ぼす」として、表現を規制したがる勢力の槍玉に上がるか、分かったものではありません。

 

 例えば、VISAがBOOTHに圧力をかけ、「マーダーミステリーを扱うならクレジットカード決済は止める」と言い出したら?

 対岸の火事ではない、決して他人事ではない。というのはお分かり頂けるでしょうか?

 

表現規制に対する世論

 今月(25年7月)は参議院選挙が行われ、与党が歴史上稀に見る大敗を喫し、かといって左派勢力もそれ以上の敗北を余儀なくされるという結果になりました。

 さて、この選挙に先立ち、AFEE(エンターテインメント表現の自由の会)が行った、各候補者へのアンケートが非常に有意義なものでした。

※集計結果PDFはこちら

 本アンケートは、一般における「表現の自由に対する意識」について類推する上で、非常に貴重な資料となっています。(回答率の低さを含めて!)

 この参院選では、表現規制問題に早くから精力的に取り組んでいる山田太郎議員が、一切の固定票を持たない身でありながら、比例代表として38万票(自民党比例代表二位)もの票を得て当選しました。

 ですが、表現の自由というイシューは、同選挙の中では決して主流とはなりませんでした。

(画像は上記postより転載)

 

 当選議員に絞っての比率でさえ、上記転載画像のように、59%が「どちらとも言えない/無回答」です。そして「規制するべきではない」と回答した割合は、「規制すべき」と回答した数の1/4にしか過ぎません。

 もし興味があれば、上にあるアンケート回答や結果集計に目を通してみて下さい。

 何故、こうした集計結果になるのかが見えるはずです。

 

「表現の自由」の難しさ

 大前提として。
 日本で暮らし、身の回りに溢れるコンテンツを享受している身であれば、「表現の自由は大切だよね」という意識そのものは、広く共有されていると思います。

 しかしながら、「表現の自由は大切」と考えるのと同時に、「表現規制に賛成」してしまっている層が、これだけ存在しているのです。その多くは自身の抱える矛盾に対して無自覚でしょう。

 AFEEアンケートの候補者たちからの回答内容は、恐らくこうした一般的な間隔を反映しているものと考えます。

 

 さて、ここからが本題です。

 何故、表現の自由は大切だと思えるのに、表現を規制する側に回ってしまうのか。

 

 多くの人は、おそらくこう考えています。

「表現の自由は侵されざる権利であり、守っていかなければならない」。

「しかしそれはそれとして、表現される内容によっては規制されるべきだ」。

 いかがでしょう? ここまで読んで下さっている方の中にも、同じような感覚をお持ちの方は決して少なくないと思います。

 

 しかしながら。

「内容を問わず、表現は規制されてはならない」

 ――というのが、表現の自由における基本姿勢なのです。

 線を引く場所を協議するのではない。線を引く/引かないをこそ協議されるべきなのです。

 ですから「内容によっては」規制すべき、という考えそのものが、規制賛成の立場になるわけです。

 

「それはそれとして、内容によっては~」は、表現を規制する側の最も多用するロジックになります。(共感されやすいため)

 そして、この点こそが、表現の自由を考える上で、最も困難なポイントなのです。

 

 何故、困難なのか?

 いわゆる「それはそれとして、内容によっては~」と考えている人々の多くは、ある誤解をしています。そして、そのことに対して無自覚です。

 

 本稿は、その「誤解」について指摘し、読んで下さった方それぞれに、自身の考えを整理して欲しいという目的で書いています。

 

 そうした「誤解」は大きく分けて二種類に分類されます。

 引き続きご覧下さい。

 

①「線を引く側にいる」という誤解

 さまざまな条件において、「自由にさせちゃダメな表現はある」というのが、一般的な感覚だと思います。

 曰く「青少年育成に悪影響」。曰く「女性を性的に消費する」。曰く「国益を損ねる」。曰く「倫理的に問題がある」など、など……。

 つまり、「表現の自由にも線引きは必要」ということです。

 繰り返しになりますが、この感覚はごく一般的なものです。そう考えるからといって、あなたが特別優れていたり劣っていたりするわけではありません。

 いえ、むしろ、「線引きをしてはいけない」と主張する者にとってさえ、そういった感覚自体は常に持ち合わせているのです。ただ、そのことに対して自覚的なだけです。

 

 これが何故「表現の自由を規制する立場」であると飲み込みづらいのか。

 こうした感覚を以て「線引きはすべきだ」「規制すべき表現はある」と主張する人は、その多くが無自覚に、無根拠に自身が線を引く側に立っていると思っているのです。

「自分にとって」望ましくない表現は規制やむなし。

「自分にとって」害があると感じられる表現はあってはならない。

 これらは、自分がその良し悪し(または要不要)をジャッジでき、線を決定できる立場にいると全く無根拠に想定しているからこそ、出てくる感覚です。

 そして、これが大きな誤解の一つ目です。

 

 これについて自覚的な人は多くありません。無自覚のうちに、無根拠のままに、何故か「自分が線を引く側にいる」と考えがちです。

 しかも。その多くは、実際に自身で線を引くのではなく、「えらい誰かが自分にとって都合の良い線を引いてくれる」と考えています。

 繰り返します。この考えに根拠はあり得ません。

 

 少し冷静に考えてみればわかるでしょう。

 自分以外の誰かが、常に「自分にとって」都合の良い線を引いてくれるとは限らない、ということを。

 いつかその線は、自分にとって大切なものを、あるいは自分自身をも、その線の向こう側に追いやってしまうということを。

 絶対にそうはならない、などという根拠もまた、ありえません。

 線を引く「ルール」と「システム」を許容してしまえば、どれだけ監視をしようが、自身にとって望ましくない将来を連れて来ることが出来てしまうのです。

 

 更に悪い将来を想定します。

 表現において「表現していい/ダメ」の線引きをする機関が出来たとします。

 この機関が、どれだけ巨大な利権を得ることになるか、分かりますか?

 ひとたびこうした機構や仕組みを生んでしまえば、どんな言説だろうと、作品だろうと、この機関の胸先三寸で生死が決まってしまうのですから。

 もしもそうなったとして、あなたは本当に、例えばSNSで自由につぶやける「今」が続けられると思いますか?

 

 上で書いた通り、多くの人々は「無自覚」に線引きが必要であると考えています。

 しかし、自覚的にそう言っている人達がいるとしたら?
 それはまさに、こうした「巨大な利権」を握ろうとしている者ではないでしょうか。

 

 本件の議論の中でたびたび引用され続けている、有名な「ニーメラーの警句」(ドイツの神学者マルティン・二―メラーのインタビューを元にした詩)を、ここでも引用させて下さい。

ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。

彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。

彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。

彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。

 

 本を焼く者は、いずれ人間を焼く。(ハインリヒ・ハイネ)

 あなたが線を引く側に立つなら、それがどんなに必要なことに見えても、正しいことに見えても、それは人を焼く側に加担したことになってしまう。

 これが、表現の自由の難しさです。
 

 正しくないものも、悪影響を及ぼすものも、あなたにとって大切なものも。

 等しく守らなければならないというのが、表現の自由のスタート地点なのです。

 

②「自由」に対する誤解

 ふたつめの誤解とは、「自由に対する誤解」です。

 これについては無視できない数の誤解がSNSなどを通して観測できており、大変絶望的な思いがしています。

 ここまで読んで下さっているあなたが、同様の誤解をしていないことを、強く祈ります。

 

 主に「言論の自由」や「表現の自由」を話題にした時に、この点を誤解している意見や主張を非常に、本当にたくさん、見かけます。

 それは、

「自由とは、何を言っても表現しても、何者からも批判されず、否定されず、反論されず、称賛と肯定的な反応のみを受ける状態である」という誤解

 です。

 

 これは言いづらいんですが、本当に、本当によくある誤解です。

 こうして文字にしてみると、何と申し上げますか、心から「なわきゃねーだろ!」と叫びたくなる内容なんですが……。一言でまとめてしまえば「自分のわがままが何でも通る状態」のことを「自由」と呼ぶ、と誤解している向きが、本当に多いです。

 

 他人事に見えましたか?
 もしもあなたが表現の自由について、「場合によっては規制されるべき」だと考えているのであれば、畏れながら同様の誤解をされている可能性が高いです。

 

 こと表現の自由に関する議題では、その線引きの必要性を実証しようとして、刑法175条を引き合いに出される事が少なくありません。いわゆる「わいせつ物頒布等の罪」です。しかし、その主張こそが「自由に対する誤解」をしていることの裏付けとなってしまいます。

 

 良いですか? 日本国民であれば誰でも、「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ」る目的で、「善良な性的道義観念に反する」表現をする、権利を持っています。

 しかしながら、本行為は上記刑法175条に抵触するため、「2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料又はその両方」の科を受けます。

 これは、「表現の自由」と一切矛盾しません

 当然同法は、こうした行為を未然に「思い留まらせる」ための抑止力となっています。しかし、そこで思い留まるのも思い留まらないのも、表現者の自由なのです。

 また、例えば出版物として、映像記録物として、これらを販売しようとなった時。

 その場合は、出版・頒布をする企業、取次をする企業、等の判断になります。例えば企業側で「これは丸出しには出来ないからモザイクかけるよ」と言うのは、表現の自由の侵害にはあたりません。「これはウチじゃマズいから出版しないよ」というのも同様です。

 これらは出版・頒布をアウトソースしようとすれば当然起こる事であり、それら全てを自身で負うのであれば、完全に個人の「自由」の範疇で実現できるはずだからです。その手間を、金を、能力を、持たないというだけのことですから、自由の侵害とは別枠の話です。

 

 刑法175条で規制されることと、表現の自由とは、何ら矛盾無しに並立します。

 何故なら、自由というのは常に責任を伴うからです。

 何ら責任を負わずに権利だけを享受できる状態を、自由とは呼ばないのです。

 

 なお、現在この刑法175条についても、見直しの動きが出ています。

 むしろ、規制そのものが年を追うごとに緩和している傾向にあります。

 昔――30年ほど前までは、性器どころか陰毛ですら、描くことも見せることも同法で禁じられていました。水着グラビアなどは、必ず「陰毛がハミ出していないか」ルーペでチェックされていたのです。万が一ハミ出していれば同法に違反、回収騒ぎまでセットだった時代がありました。今の若い方には想像もつかない世界でしょうね。

 この周辺の話に興味があれば、下記の書籍が適しているかと思います。

 

 自由には常に責任が伴う

 だから「表現の自由」は決して無責任な、無制限の権利を保証するものではない。

 非常に重要な話ですので、これだけでも覚えて帰って下さい。

 

ゾーニング

 さて、ここまででは、表現の自由を考える際に、「線をどこで引くかで考えるべきではない」というお話をさせてもらいました。また、この考えに至るための障害として、二種類の誤解が存在しているという説を唱えさせてもらいました。

 しかしながら、表現の自由を考える際に、とても良く出てくる議論が「ゾーニング」です。

 

「線引きが必要」と考える向きの中でも、その多くは「本を焼けとまでは言っていない」、「ゾーニングはなされるべき。それを見たくない者の目に触れてはならない」と考えている人はとても多くいます。

 筆者としては、この意見にもストレートには賛同しかねます。

「何でもかんでも『ゾーニング』で済ませられると思うなよ」と考えています。

 もう少し強い言葉を使うなら「臭い物に蓋をして済ませようと思うな」でしょうか。

 

 まず第一に、「ゾーニング」を唱える向きは、上記一つ目の誤解と同様、「自分がゾーンの線引きを出来る立場にいる」と無邪気に考えているからです。

 上で言った通り、それは無根拠であり、誤解です。

 あなたが「自分にとって不要な/不愉快な/不都合な表現を目にしないように閉じ込めておける」保証などどこにもありません。それに、「その線引きがあなたの都合の良いように行われる」保証もありません。また、「ゾーンの線引き」を定める者には巨大な利権を与えます。

 見えないように押し込めておける物が、常に自分にとって都合が良いとは限らないということは、前提として覚えておいて下さい。

 また、実際に「自分にとって不要な/不愉快な/不都合な」ものが目に入らないようにした歴史についても学ぶ必要があるでしょう。「アパルトヘイト政策」などで検索してみて下さい。

 

 第二に、ことインターネットにおいては、仕組み上「ほぼ」ゾーニングが済んでいます。

 インターネット上にある情報の全ては、基本的に「自身が望んで」入手するものだからです。

 とは言え、見たくもねぇクソ広告を見せつけられる問題については、筆者も一言も二言もあるんですが、傍論も良いところなのでここでは省きます。

 

 そして最後に。ゾーニングは決して解決になりません。

 線を引き、見えないように閉じ込めたところにさえ、ずかずかと入ってくる人々がいます。

 そして、せっかくゾーン分けされ、見えないように「隠されて」いたものを公共の場に引っ張り出し、「こんなひどいものが!!! みて!!!!!」と拡散しようとする者が現れます。

 これは、(既にゾーン分けが成されている)アダルトコンテンツにおいてはもはや日常茶飯事です。最初の「実害」の項目でも触れた「steamでこれから販売予定のインディゲーム」でも、現在進行形で同様の事態が起こっています。

 

 上記の理由から、ゾーニングは決して解決策にはなり得ないと断言します。

 また、「これはゾーニングが必要」「これはゾーニングしなくて良い」といった議論自体が、表現の自由を考える上でナンセンスです。線の向こうの扱いが変わるだけで、線引き自体は行われるため、決して許容してはならないラインだと考えます。

 線を引くことそのものが、自由と権利の侵害です。

 

マーダーミステリーにおける表現規制問題

 では、ここからは話題を変えて、マーダーミステリーというジャンルから見た表現規制について考えてみましょう。

 ストレートな、あり得る実害として、「いつBOOTHでも禁止されるか分かんないよ」という話はさせてもらいました。これは例えば「殺人事件を扱う」という非倫理的なテーマそのものが規制される可能性を考えてのことです。

 しかし、実際に規制が入るとして、マーダーミステリーならではの難しさが出て来る。というのは、何となく皆さんならお気付きでしょう。

 そう。ネタバレ問題です。

 

 マーダーミステリーに限らず、あるジャンル(例えばミステリなど)の創作物は、受け手に驚きを提供することを主軸としています。

 そしてもちろん、それらを事前に知らされてしまうと、それに出会った時の「驚き」は無くなってしまいます。だから、何でもかんでも事前情報として、受け手が手に取る前に伝えるわけにはいきません。

 そして、現状でも既に問題として周知されているのが、センシティヴ要素の問題です。

 

 マーダーミステリーは、繰り返しますが、ジャンル自体が一定の非倫理な要素を含みます。

 しかしそれを超えてなお、センシティヴな要素、つまり受け手によっては強い嫌悪感を発するような要素も含み得ます。

 例えば自殺。動物の死。子供の死。虐待。いじめ。性犯罪。望まぬ妊娠。堕胎。差別。

 このような要素は、例え「殺人事件」というインモラルまでは許容できてたとしても、多くの受け手が許容しかねる内容かと思います。

 こと「表現の自由」の観点から考えるに、これらの「多くの受け手が許容しかねる」シナリオとて、存在は許されるべきだと考えます。しかし、喜ぶ人間が少なければ少ないほど、流布も、好意的な感想なども、少なくなります。もちろんこれは作者が責任を追うべき話です。

 

 しかしながら、同時に、こうした「センシティヴな要素」については、ある程度存在を予告されるべきだとも考えます。

 強い嫌悪感を覚える要素が出てきた時、それでもプレイを中断することは難しいから、です。

 マーダーミステリーは多人数プレイ用のゲームであり、決して一人向けのコンテンツではありません。ですから、自分が「無理」な時、中断してしまえば「自分以外の全てのプレイヤー」もまた続行が不可能となってしまうからです。進行の度合いによっては、他の参加者も二度と再開できなくなり、そのままシナリオへの参加券を失うでしょう。

 そう考え、心を無にし、嫌悪感から目を逸らしながらプレイを続行してしまうタイプのプレイヤーは、います。いや、目を逸らすどころか、時には自身が強く嫌悪する要素そのものを「称賛/実行」する立場にすらなりかねないのです。

 

 ですから、こうした「人によっては強い嫌悪感を覚える可能性がある要素」については、事前にしっかり告知されるべきである、と筆者は考えます。十全に告知できるか否かはともかく、その努力はされるべきでしょう。

 そして、それが「ネタバレ要素」であり、「受け手に驚きを与える要素」であるのなら。

 それは自己満足であり、自身の加害性を他人で昇華しようとする行いになり得ます。

 

 マーダーミステリーでは、手に取る前に伝えられる情報の中で、ある程度受け手に「覚悟」を促す必要があると考えます。

 殺人事件を扱うこと。あなた自身が犯人を演じる可能性があること。

 この点に覚悟ができずに遊ぼうとしたら、きっと受け手にとって不幸な結末が待っています。

 これと同様に、センシティヴな要素の存在をできるだけ事前告示し、「覚悟」を促す。

 そして「覚悟」をせぬまま押し付けられる事故を回避する。

「覚悟」が出来ない要素であるのなら、そもそもプレイをしないという判断をさせる。

 そうした事前情報作りは必須であると考えます。

 表現の自由には責任を伴います。そしてその責任を、受け手に負わせてはいけません。

 それはあなたが負うべき責任なのです。

 

 これらを無視し、覚悟を促さず、責任を受け手に追わせ、そして受け手がその「被害」を広く訴えた時。

 そのせいで、「マーダーミステリーに対する」規制の声が上がるかも知れないのですから。

 ここまで長文で読んで頂けたならお分かりの通り、少なくとも現在、表現の自由について深く考えている人間は少数派です。そのためにどんな点が難しいのかもご説明したつもりです。

 いつマーダーミステリーが規制派の槍玉に上がり、迫害されることになるのか。今のところ誰にも「そんなことにはならない」と言えない状況です。

 それを避けるためにも、一人でも不幸な受け手を作らないようにするための、制作側の努力は必要でしょう。

 

 次回更新は、マーダーミステリーシナリオにおける事前情報の作り方、というテーマで考えています。

 

ことほどかように

 表現規制問題というのは、非常~~~~にめんどうくさい話です。

 にもかかわらず、規制だけは突然、ものすごいスピードで始まります。

 そして、そうなってからでは「遅い」問題でもあります。

 

 マーダーミステリーを「遊ぶ」立場でも。「遊ばせる」立場でも。「作る」立場でも「広める」立場でも「応援する」立場でも。

 表現規制問題は他人事、他山の石にはなりません。

 マーダーミステリーの「内側」の問題にも、マーダーミステリーを取り巻く「外側」の問題にも、みんなが注意して、考えるべき問題かと思います。

 

 ここまで11000字以上を通読して下さった方、決して多くはないと思います。

 これは筆者の視点と考えですので、当然反発される方もおられましょう。

 ですが、それぞれがそれぞれの視点で以て、表現規制について考える時間として頂けたなら、それこそ望外の喜びです。

 長文にお付き合い頂き有難う御座いました。読んで下さった全ての方にお礼を。

 

 

 なお、全く別の界隈から本記事にたどり着いて下さった方。
 大変今更ではありますが、当blogの冒頭から、「マーダーミステリーとはなにか」という紹介をさせて頂いております。お時間のある時にご笑覧頂ければ幸いです。

 

 また、当blogでは、主にオンライン上でDiscordというツールを使っての遊び方を紹介しております。

 Discord上にて、マーダーミステリーのプレイヤーを募集するコミュニティサーバーを運営しています。プレイの機会をお探しでしたら是非ご参加下さい。


▼マーダーミステリーオンラインセッション募集用サーバー▼

 

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 最後にもう一度、通読いただいたことに感謝を!