暮らしと算命学*「知性的な生き方」 | イケジイのおもしろ玉手箱

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暮らしと算命学*

「知性的な生き方」

 

人間の心と言うのは、生き方や暮らし方の中でかなり成長していくものですが、そのためには、先ず自分の命を人任せにするような心が大切なのです。ある意味では、死に対する覚悟で生きると言うことです。

 

生きるという「覚悟」のある、なしは「心」の大きな問題ですから、心は強くあって欲しいものです。

 

大運天中殺や天剋地中が来るからと言って、右往左往しているようではまだまだ新米で、そんなものに振り回されない心を育てて欲しいものです。

 

この現実と精神のバランスが取れていると、少々の運の崩れが来たとしても、大きな変動もなく乗り越えていくことができるのです。

 

しかし何かに対しての「覚悟」と言うのは、死ぬ覚悟ではなく「生きる覚悟」であって欲しいものですが、死ぬときは覚悟がなくても、その時が来れば死に至ります。

 

そこで算命学心論では、まず現実と精神のバランスを根本において、生き方における「心の設定」を解いているのです。

 

もし自分が平穏に生きたいと思えば、どういう心構えが必要なのか、知的な生き方をしたい場合は、どんな心構えが必要なのかという、それぞれの道の「心構え」を解いているのです。

 

生き方(心構え)は、次の基本的な5パターンに分かれます。

①乱生(らんせい)=ドラマチックな生き方

②平生(へいせい)=平凡、庶民的な生き方

③組生(そせい)=組織的な生き方

④庸生(ようせい)=自分勝手な生き方

⑤知性(ちせい)=知的な生き方

 

「乱生」は波乱万丈な生き方であり、「平生」は家庭的で平和的な生き方であり、「組生」は経済人的な生き方であり、「庸生」は気楽で自由な生き方、「知性」は学者や芸術家的な生き方です。

 

上記のように5つの世界に分けていますが、そこで自分がどの世界を選択するかにより、覚悟を決めなければなりません。

 

さて、いずれかを選択したとしても、そこに問題があるのですが、最初に自分はこの「平生」で生きたいと決めているのに、翌年には「乱生」も面白いから変えてみたいなと、くるくると生き方が変わると、自分自身も困ってしまいます。

 

この場合、ひとつの道を歩み始めたら、途中で道を変更した途端に、運勢が反転してしまうのです。

 

ここに「平生」の平凡な道を選んだとすると、平凡な家庭をもって平凡に生きているわけです。それぞれが助け合って生きていくのが平生ですが、あるときに目覚めたとしましょう。

 

そこで目覚めた新しい生き方へと進むと、最初に選んだときに平凡な生き方で平凡な家庭で子供たちもいるわけです。

 

何の変哲もない平凡の暮らしに飽きて、「乱生」のような生き方に変えてみたいと舵を切り、今度は天下国家を論じるような生き方を選択すると、自分は望み通りになるかも知れませんが、他の家族はどうなるでしょうか。

 

妻や子供は、その平凡な生き方で生活しているわけで、夫だけ乱生の方へいくわけですから、家族たちは取り残されてしまいます。家族は舵を失った船みたいなもので、家族たちは漂流してしまいます。

 

そこで自分の家族はどうして安定性がないのか、妻に禍がかかってこないか、子供は無事に育つだろうかと心配するから、自身に矛盾が起きてしまうのです。

 

このような場合に自分が生き方を変えるときは、すべて捨て去って精算した後に、新しく次の道へと進んでいけばいいのですが。

ところが決着をつけないまま別の方向へと進むと、平凡な家庭のペースがありながら、その上に「乱生」を乗せていくようなものです。

 

③乱生(ドラマチックに生きたい)

②庸生(自分勝手に生きたい)

①平生(平凡な家庭)

 

最初に平凡な家庭があるのですが、その上に自分勝手に生きたいというブロックを積み上げ、さらにその上に、今度は天下国家のために働き、ドラマ的な人生を歩みましょうと積み重ねていくと、それぞれ別の生き方ですから、あるときに脆くも一気に崩れてしまいます。

 

このように積み上げる場合に、異質なものを積み重ねると、強固さが出てこないのです。ゆえにこのような積み重ねをしないことが、運勢を落とさない方法なのです。

 

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「知生」の生き方

 

「知性」の生き方とは、学者や芸術家などが対象となりますが、これは先祖の流れなど、ポイントは「隔世遺伝」による、祖父母からの遺伝が多いと言うことです。

 

例えば親と言うより、祖父や祖母が学者であった。しかし親はそこまでではなく、一代飛び越えてその子供が知性的な生き方で、学者とか芸術家の生き方になるという、因縁因果の関係によります。

 

ところで、この知性の生き方としての覚悟は何だと思いますか?

非常に頭が良くて学者的、芸術的な人はどんな覚悟を必要とする人生だと思いますか?

 

これは「孤独」の覚悟となります。

周囲にも友人知人など誰一人として協力的な理解者は必要なく、一人で全てやっていく、そのような孤独の覚悟が必要なのです。

 

「知性的」な生き方とは、この孤独の覚悟がないと年齢に負けてしまいます。20代、30代の若いときは何とか頑張れますが、50代以降長生きすればするほど、人間は孤独に脆くなるのです。

 

その孤独に負けたら、この知性的な生き方、常に学問的、精神的と言いますか、そうした生き方は難しくなります。

 

仮に若いときにはノーベル賞の対象となるような、優秀な学者であっても、年齢を重ねて老年になり、孤独に負けた途端に、ただの人になってしまうのです。

 

そのために、この「知性の覚悟」とは、孤独の覚悟と言って、死ぬまで孤独で暮らしても愚痴ひとつ言わないで、それに相応しい覚悟を持っていれば、運気は下がることはないのです。

 

男性であれ女性であれ、普通の人では私の思っていることを分かって欲しい、家の主人は全然理解してくれない、うちの子供たちは私の言うことを聞いてくれない、など愚痴ることもあるでしょうが、孤独の覚悟とは、「誰からも理解されなくて結構ですよ」と言うことなのです。

 

そうした覚悟を自分が持っていれば、運命に振り回されることはありません。しかし平生とか、組生とか、こうした生き方は大いに自分の思っていることを理解して欲しいと要求しても大丈夫です。

 

もちろん、乱生とか知生という生き方では、あまり人には理解して貰えません。もし人から理解される位だったら、最初から乱生のような生き方は望まないでしょう。

 

往々にして、天下国家を論じて新しい世の中を創造したり、人が考えないようなものを考え出そうとか、このような人物が人に理解されるわけがありません。しかも他人だけではなく、家族の配偶者や子供にも理解されないかも知れません。

 

しかし、理解されないのが当然であって、その孤独が嫌であれば、最初からこうした生き方をしないことです。

そこが先ほどの心の問題で、いかに自分の生き方と自分の心(覚悟)とを一致させるか、と言うことが重要な問題になってくるのです。

 

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