こんにちは
連日投稿になります。
今回も短めの内容となります~~
前回までは白糠線上茶路駅跡、第10茶路川橋梁と第9茶路川橋梁を探索しました。
今回は尺別炭鉱住宅跡周辺を探索します。
尺別炭鉱
1918年 採掘開始
1920年 尺別鉄道が軽便鉄道として開業
1942年 軌間を1067㎜とし専用鉄道となる
1970年 尺別炭鉱閉山に伴い廃線
国土地理院より引用 1968年
閉山2年前ですが、炭住がびっしりです・・・!!
国土地理院より引用 1977年
閉山・廃線から7年後ですが、建物がほとんど消えてしまいました・・・
中央右の2棟が現在も残る炭住跡ですが、その周りに広がる平地にあった建物は跡形もありません・・・噂だと、この2棟以外は木造であったため解体して木材として売られたが、この2棟コンクリート製なので残ったと・・・
そして今、すべてが自然に還ったようです
わずかに残るのはこの2棟の炭住跡、給油所跡、尺別生活館跡、尺別鉄道の橋台跡のみ・・・
給油所跡から見ていきます
ぽつんと取り残されていた
給油所だったのでコンクリ製、だから残されたのだろうか?
「危険物給油取扱所」
トイレも崩壊寸前
特に残されたものもなく、看板が無ければ給油所跡ということにすら気づかない
この写真の奥の林の裏にある炭住2棟も見てみます
レンタカーなのでボコボコの道をゴリゴリ進んでいきます(笑)
航空写真からみて左側の棟
屋根から立派な木が・・・さながらアート
窓は無く、レンガ壁も剥がれつつあります
もう1棟
こちらも立派な木が・・・対空迷彩でもしてるのかな(笑)
ところどころ鉄筋がむき出しに・・・
ところで、先ほどから写っている手前の茶色の土、全部牛糞でして・・・
かなり芳ばしい香りとハエの大群が居たので、さくっと外観だけ撮って退散です(笑)
覗いた感じだと中に残っているものはほぼなく、もぬけの殻でした
ただ、この2棟の目の前の広大な草原に炭住がびっしりと存在し、人々の営みがあったと考えるとロマンが、夢が、広がりますねぇ~~
なんせ、閉山時でも人口4000人を超えていたそうで・・・!
夢の跡・・・
先ほどの給油所の向かいにある尺別生活館跡も覗いてみました
入り口に「成田農場」とありましたが、しばらく人の手は入ってなさそう
この建物の裏が新尺別駅跡
暖かい日差しと廃のコントラスト好きすぎる
空き瓶と苔生す廊下
ハイター
床は意外としっかりしていた
昭和55年の新聞
戸が開くことはもうない
某サイトによると平成26年ごろまでは使われていたらしい
客人を待ち続ける
5年前に訪れた方の写真と配置がほとんど変わっていなかった
増毛名産の段ボール
こちらは1984年で時が止まる
昭和60年6月20日北海道新聞
TWA機ハイジャック、富内線廃線反対の記事が見えるが富内線もTWAも今は無い
黒板に子供の絵が、、、生活館時代に子供が描いたのだろうか
その子供も大人になり、この思い出だけが残る
裏手が新尺別駅跡とは知らずに、わずかにコンクリート製の東屋のようなものがあったが、どうやら機関車の給水関連の遺構との記述も見かけ、惜しいことをしました・・・
他にもホームが残っていたりしたらしいのですが、私が見つけたのはこちら、、、!
まさか・・・
これは、、、
レールだ!!!!!!!!!
30㎏レールくらいの小ささです
製造などの刻印はわからず・・・
周辺も探してみましたが見つからず
レールが記載された他サイトなどは調べた限りは無いので、初出の写真かもしれないですね
ここが駅跡と知っていたら、もっと時間かけて探したり写真撮ったのですが、、、
いかんせん、生活館は探索せずに炭住跡と給油所跡だけの予定だったので・・・
要再履修ですね~
新尺別駅
軽便運炭軌道時代の昭和14年頃から付近に職員社宅や炭鉱住宅が建ち始めて人口が増えたため、ホームは無かったが停車して乗降するようになった。専用鉄道に切り替わって当駅が開設され、同時に軽便運炭軌道時代に尺別炭山駅にあった鉄道事務所、交換設備、機関庫と炭水所、保線事務所などが当駅に移転して中心駅となった。
南東側(尺別炭山に向かって左側)に25坪の駅舎をもつ土盛の単式ホーム1面1線(1番線)と副本線(2番線)、その外側に短い板張りの駅裏側片面使用の単式ホーム1面1線(3番線)、さらにその外側に機回し線を有し、構内駅裏の尺別寄りに機関庫、炭水所、検車庫を有した。 3番線の板張りホームは、1955年(昭和30年)頃に上下通勤列車が同時入線するダイヤが組まれたため臨時設置されたもので、1965年(昭和40年)までにはダイヤ改正と伴に姿を消した。
以上Wikipediaより引用
ということで、今回はここまで
世紀の(?)大発見に興奮冷めやらぬまま、根室本線をかじりに尺別の丘まで移動です!
ではまた次回