この世界は物質では出来ていない。
ぼくがそれに気づくきっかけになったのは過去にあった、ある強烈な体験によってです。
そして、その際に崩壊した心身を再度整え、その強烈な体験を再現してみようと思っていたとき、その方法論としてヨーガが最適であることが分かりました。
それは古典ヨーガでは、この深淵な宇宙を体感、体得する為の方法論が見事に体系化されていたからです。
それが尋、伺、楽、我想という瞑想の階層性です。
これは
尋-論証性。
伺-反射。
楽-歓喜。
我想-純粋な我。
になります。
まず“尋”とは、普段の論理的な思考です。
つまり、自分が日常的に思考している傾向やその特性に対する気づきです。
次に“伺”は、論理的に考えて出した思考ではなく無意識的な行動原理や取捨選択、つまり反射。
脳科学的に言えば前頭前野に刻まれた無意識の思考パターンに対する気づきです。
さらに、そのふたつに対して気づきを得れたなら“楽”、アナンダと呼ばれる純粋な喜びに対する気づきに進めます。
言葉を変えれば、個としての自分が生きる目的、生きる喜びに対する気づきになります。
ここで勘違いしてはいけないのは、それは"通常の喜びでは無い"という部分です。
前項の尋、伺に対して明確な気づきが起こっているからこそ、開ける地平であって、ただの楽しい、嬉しい、喜ばしいとは別のものです。
ほとんどの人は、この第一段階の“尋”にすら至っていません。
気づきと言えるほどの気づきではなく、なんとなく気づいている、という人がほとんどです。
明確な気づきは対象への支配力を得ます。
つまり自分の制御下にそれが置かれることになります。
であれば、普段の論理的思考が完全に自分の制御下にないといけません。
それが出来ているのであれば、気づきは起きています。
出来ていないのであれば、気づきは起きていません。
三段階目の楽とは尋と伺に明確な気づきが起こり、論証性と反射が共に自身の制御下に置かれていることで開けます。
言うなれば、普段の論理的な思考や反射的な思考が共に浄化され不純が無い状態になることで輝きでる"純心の喜び"になります。
しかし、普段の論理的な思考であれ、反射的な思考であれ、それが完全な制御下に置けることなど有り得るのでしょうか?
答えは「有り得ない」です。
じゃあ、どうしたら気づいていると言えるのか?
それは、制御下に置かれている自分と、制御下から外れてしまっている自分の識別が明確に出来ていることです。
"出来ている"が明確に分かっているから、その逆の"出来ていない"も明確に分かるようになります。
この明敏な識別こそが、対象に"気づいている"という状態になります。
しかし、ほとんどの人が明確に"出来ている"ではなく、"なんとなく出来ている"で終わっており、そこを一歩踏み込むことをしません。
なので出来ている状態の自分と出来ていない状態の自分の境界線が曖昧になります。
結果、尋や伺という機能の全体性を掴むことなく、正しい気づきに至らないという現象が起きます。
そして、もうひとつ問題があり“尋”が完成していなくとも“伺”や“楽”の統制の感覚を味わえてしまうという点です。
なぜならこれは人間としての機能を便宜的に分けただけであって、本来はひとつの大きな機能だからです。
つまり全ての機能が働いてはいるけど、そこに“識別”という"気づき"が起こっていないため、対象への支配力が正しく働かない状態になっているということです。
支配力が無いとはそれが出来たり、出来なかったりすることでは無く、その結果に心が左右されるような心身の状態です。
しかし、それでも問題も無く人生を楽しむことが出来ます。
ヨーガにおける“楽”とはの普段の楽しい、嬉しい、喜ばしいとは別のものです
ただし、それは普段のそれととても似ています。
なぜなら、普段のそれはアナンダからもたらされるものであり、アナンダの片鱗だからです。
つまり“楽”に対して気づくとは自分自身の欲求の大元に辿り着くことと同義だと言うことです。
普段の喜びや楽しみが真のアナンダととても似ているように。
尋も伺も楽も、そこまで、その差異を深く追求することなく、ある程度、それこそなんとなく感じられている、なんとなくコントロールできているくらいでも充分に人生は楽しめるようになります。
だからこそヨーガが求めるようなレベルの深い気づきを得る必要性をほとんどの人が感じないため、本当の意味での自己統御を困難にしてしまっているのだと思います。
そして、最後に我想。
"わたし"という感覚です。
これも勿論いわゆる“わたし”ではありません。
前項3つの気づきを経て、"わたしではない"が完全に排除され輝きでる、"わたし"です。
言うなれば、"不純物のないわたし"です。
これがヨーガの瞑想の対象の階層性です。
そして、最後にその純粋なわたしすら超克することでヨーガは完成となります。
あとは、その"わたし"がこの世に生まれてくる際に生じたモメントが果てるまで一生が続くのみだとされています。
続く。