近藤富蔵『八丈實記』(緑地社)から為朝の大島から御蔵島までの軌跡と関係する部分だけを、以前に島嶼コミュニティ学会で報告した伊豆大島配流後の源為朝の生涯と関連文化財等(中間報告)以後から新規性のある、ないしは関心を引いた内容だけをメモ書き的に記した。
①為朝は流人の間に島で1男児をもうけた。この男児は源二郎為兼で、これを密かに足利義清の所へ遣して義清は男児を子とした。頼朝の時代、義清は足利義兼と名乗り、その勇気が優れたので、頼朝に耳に入り、頼朝と対面した。その時、義兼は実は為朝の子であることを打ち明けた(2巻(1969年)65頁)(『難太平記』)。
②為朝の大島での子為頼は為朝が自害した時に為朝によって刺殺されている。次男為家は母が抱えて逃げた。①について『難太平記』を引用する(同)(『大日本史』)。
③大島で為朝がもうけた娘は賀茂六郎重長の妻になったとか(同133頁)(『南方海嶌志』大島章)
③『保元物語』鎌倉半井本には為朝攻略の島名について利島の名があるが、他本にはない。近藤富蔵は大島からみえる利島を為朝が見逃す道理がないとする。
④為朝は大島に流されたが、その時随従が54人いた。その後伊豆諸島を探索して7島を拝領した。そのために官軍が差し向けられ、1170年(嘉応2年)に自害した。また八丈島の伝説では死没年は安元2年(1176年)だという。叡覧されて獄門にさらされた為朝の焼き首は偽首で為朝本人は大島を逃れて、また途中で子虎政を御蔵島沖に投げ捨て殺しつつ、八丈島に渡ったという(同116頁)。
⑤三宅島の為朝山というのは為朝がかつて住んだ館跡である(同133頁)。