今日にみた第1の夢はこうです。私は入口がガラス木戸の古い商家風の木造家屋から両親が私を私の宿まで車で送っています。村程度の街に朽ちた2本立ての映画看板が立っています。私が「もうやってないだろうに。」、というと、親は「いや、やってるから立ってるんだよ。」、いいます。宿は平屋で古い農家風です。玄関前で降りた後、私は手ぶらに気付き、「おーい、おーい。」、と叫びました。第2の夢はこうです。先の夢の続きで、外は雨で私は暗い室にいます。2日目です。チェックアウト時刻があるはずが夜です。体がよく動かず、用意できません。気付くと私は両親とどこかの部屋にいます。「宿から出たのか。」、というと、「そうだ」、と両親はいいました。
ガラス木戸の商家は大島町でみました。先日の大島行きは実家から行ったので、二宮駅まで親に送ってもらいました。映画看板は昨日の夢見で下大槻に触れたからです。下大槻の広畑小学校の道路を挟んだ向かいは神奈川銀行裏手で、そのコンクリート塀に映画看板がいつも立っていたのです。老婆の夢見で触れましたが、私は過日、下大槻に行きました。しかし今でも看板があるのかわかりません。この看板と先日、廃屋となった親の実家の研究資料を探すため、親と佐賀県岩屋の家まで岩屋駅から歩いた際、旧岩屋映画館前を通り、親が「ここが映画館だったんだよ。」、といった記憶が連想されたのだと思います。宿は大島行きが関係していると思いますが、当然一人旅でしたし、荷物も忘れていません。多分、私の旅経験は一人旅が少なく、家族や連れとの旅行、出張等、学校関係の旅行等、どこか他人に依存する旅が多いので、ああいう夢見になるのでしょう。それでも一人旅は10回近くありますが。人に依存しない旅だとチェックアウトが気になります。私が大島で利用した宿のチェックアウト時間は9時でした。外が雨なのは夢見の時刻、夜で外が風雨だったからです。宿の室が暗いのも夜、就寝中で室内が暗かったからという外的刺激によるでしょう。
ところで大島といえば源為朝(1139-1170)です。為朝は源為義(1096年-1156年)の8男で、強弓の名手の豪傑として知られます。九州を平定したので鎮西八郎と呼ばれます。為朝は1156(保元元年)の保元の乱では崇徳上皇(1119年-1164年。在1123年-1141年)側につき、敗れ、近江で逃亡療養中、土地の者の密告により捕縛されました。しかしその勇猛を惜しまれ、処刑されずに再び弓を引けないように肩を外された上で、大島に流されました[1]。為朝はここで島代官の娘と結婚し、50日程度で肩が回復すると[2]、伊豆七島を制圧しました。その勢力を怖れた朝廷は1170(嘉応2年)、伊豆介狩野茂光に追討を命じました。為朝は手勢と共に応戦しましたが、衆寡敵せず、大島北端、乳ヶ崎の為朝古戦場で自決したと伝わっています[3]。ところが為朝は大島で自決しなかった異説があり、琉球[4]に渡り、そこの大里按司(おおざとあんじ)[5]の娘と結婚し、その息子尊敦(そんとん)は初代琉球王舜天となったというものがあります[6]。しかもこれは琉球正史で、東郷平八郎元帥他の尽力により1922(大正11)に「上陸の碑」が建てられました。実際、大島から琉球までは海流にのれば、距離から想定されるよりもずっと早く琉球に到達するそうです。しかしそれが真実だとして為朝は決戦前に長男を殺し、大島の妻と他の子供は逃れたとされますが[7]、彼女等はどうなったのでしょうね。『中山世鑑』では郷愁の念に駆られた為朝はやむをえず妻子を置いて帰郷したとあります[8]。ともあれ為朝の琉球上陸説は源義経のチンギス・ハン説よりかは可能性があると思います。言語も共通するものがあるそうですし[9]
人生色々、英雄も色々ですが、流れた先々で妻を娶る逞しさをみせる為朝は、英雄色を好む、の典型だなあ、と思いました。しかも沖縄では素性不明者として上陸して「やあやあ、我こそは源為朝!」、なんていっても、「はあ、誰それ。」、と言われるに違いない土地で生き別れた妻子を他所に後添いを娶った訳です。為朝伝説をみてると、琉球王朝云々よりも彼の行動力に目が行ってしまいます。歴史って色欲が動かすのですかね。


[1]著者未詳、岸谷誠一校訂『保元物語』(岩波書店、1934年、初出承久以前)「爲朝生捕に處せらるヽ事」112頁には「腕をぬきて」とある。
[2]岸谷・前掲・112頁には「五十餘日して、肩つくろひて」、とある。
[3]注で特記した事柄以外は以下によった。大島町「赤門」(1993)。為朝舘跡前の立て札である。大島町「鎮西八郎源為朝」(1993)。こちらも元町にある立て札。こちらがより詳細。いずれも図示する。なお新島為朝神社前にある由緒書には、為朝が国司の追討を受け、果てた島は八丈小島であるとの説もあることが記されている。
[4]首里王府編『訳注 中山世鑑』諸見友重訳(榕樹書林、2011年)51頁によると、到着当時は「流虬」。為朝が流れて到達したので、「流求」と改められた。
[5]大里は現南城市大里あるいは糸満市大里。「按司」は領主(首里王府・前掲・54頁注1)。
[6]首里王府・前掲・17頁、51頁。
[7]岸谷・前掲・「爲朝が島に渡る事并に最後の事」117頁には「島の冠者爲頼とて、九歳になりけるをよびよせて刺しころす。これをみて、五になる男子、二になる女子をば、母いだきてうせにければ力なし。」、とある。
[8]首里王府・前掲・51-52頁。妻子を残したのは妻を船に乗せたため遭難したと舵取りがいったため。
[9]高宮広土『島の先史学』(ボーダーインク、2005年)179-181頁によると、沖縄方言と日本語(東京方言)とはかなり近い関係であることが分かっている。また引用される外間守善教授は、沖縄方言が2、3世紀から6、7世紀の南九州から沖縄諸島への移民により成立したとするという。さらに引用される服部四郎教授は1400年程前に日本祖語と沖縄方言が分岐したとする。
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