イケダムネオ人生学習帳 -14ページ目

イケダムネオ人生学習帳

「ことばは感情を変え、行動を変える。行動が変われば習慣が変わり、人格が変わる。人格が変われば、集まる人が変わり、ひとの運命が変わる。」  日々の気づきを言霊に託し、変えてみせます。私の運命。

ここ、ホーチミンも、雨季も終わり、昼間は本当に暑いが朝晩はすこしばかり過ごしやすくなり、
本を真剣に読む気になってくる。

「成功する子、失敗する子」、副題として何がその後の人生を決めるのかとある書籍を、半年かけて
読んでいる。

永遠の疑問でもあり、だれもが思っていることで、何かが成功の鍵になり、それを科学的または実際の記録を解き明かそうとする内容に興味が惹かれて購入した。
似たような内容で、「最高の人材を見出す技術」ではスポーツトップアスリートの成功の鍵を
解き明かすべく、各地で調査した内容であったが、3歳くらいから、15歳までに最低2万時間修練しないとトップアスリートにはなれないと、だれでも知っているいるような内容だったが、
それでは2万時間をそれに没頭できるためには何が必要かであるのをジャーナリストの視点で解き明かしていったのが本書になる。

現在読み進めていく中で、
-幼年期(3歳から10歳前後か)の心理的ストレスは、脳に物理的損傷を与える。(旧脳の緊急事態へ対処するための脳内メカニズムが、常時発動されることは幼年期の脳に物理的損傷を与えることで、物事への対処が破壊的行動にでることになる。これは、貧困からくる家庭環境によるところが大きい。)
ただし貧困であっても、心理的ストレスがない子供は学力も低下せず、大学に入っても
学力を保持できる。

-大学に入学しても、その学力を保持できるのは、知識(対象に対する理解、ワーキングメモリー
その場の状況に対処するための一時的に記憶すべき内容、これがあれば高校程度の学校の試験は
よい成績が取れる。)だけではだめでメタ認知(簡単にいえば、気質であり性格である。自身の状況、敗北した場合、悪い状況に直面した場合には、自身の立ち位置を客観的に理解できる能力)が重要であること。

とのこと。メタ認知はいろいろな言葉を変えて、説明されているが、メタ認知ができるようになって、次は継続して、日本流にいえば根性で困難な局面に対処して、継続していくことで局面を打開する能力が必要になってくると説く。


現在読み進めているのは、その実践の例として、is318(12歳以下の学校で低所得者の学校)でチェスを教えているエリザベススピーゲルのチェスの教え方に着目している。この学校は大手進学名門校に伍してチエスの大会で良い成績をおさめている。
彼女は決して、生徒をほめたたえて、叱咤激励することはしない。チエスのゲームを一緒に分析して、負けたゲームを再現して、どこで手をあやまったのかを、生徒に考えさせる。よく考えないで駒を動かした場合には、相手を罵倒して、その手を責める。

つまりはその次の一手を考えることは、思考の訓練をしているようなものだと、彼女は言う。
「自分の間違いをどう理解するか、思考の過程をもっとよく自覚するにはどうしたよいか。それを教えるってこと。」こうも言う。
「完全に物事をコントロールできる範囲で(つまりチエスゲームのこと)で負けることは子供たちにとって稀な経験なの。チェスの試合で負けたの場合には責めるべき人間は自分しかいないことはわかりきっている、勝つために必要なものをすべて持っていたはずなのに、負けてしまった。いちどきりなら言い訳できるが、それが毎日、毎週となるとまちがいや負けから自分を切り離す方法をみつけるしかなくなる。負けというのはその場その場の行動の結果であって、永続するもの状態ではないことを生徒に教えたいの。」






サッカーを始めて、早43年がたつ。最初は野球部にいたが、そこに中学校一番のワルがいて、そいつに毎日のように理不尽なけつバットを受けるのがいやで、中学も変わり、そこでサッカーと出会う。
少年マガジンか何かの雑誌のレジジェントカマモトのインタービュー記事の中で、カマモト自身も
世界中を旅行できるので中学生のときに野球部からサッカー部に転向したのを読んで、サッカーに
転向したのだった。

このスポーツに出会えたことが人生最大の収穫かもしれない。当時はマイナースポーツであっても
世界に開かれたスポーツをやっていることが本当に楽しかった。サッカーをやるためなら、いまでも
最大限の犠牲を払っても、サッカーを選択する。

サッカー好きの友達はいまでも、付き合いが続いている。ホーチミンにきてもサイゴンジャパンフットボールクラブで、若い連中と楽しめるし、今回はおじんサッカーの同輩のN氏が取り持つ縁で、

三浦監督(現在のベトナム代表監督)、田中考司さん(ベトナムVリーグの運営委員長)、森安サンフィレッチェ監督と一献交わすことができた

三浦監督と田中さんは薄給にもかかわらず、海外での日本サッカーの発展の礎としてこられていることに頭が下がる。
また、森安監督も穏やかで、頭の低い方であった。

お三方の奮闘を期待し、その姿をみて大きな刺激をうける自分も幸せかもしれない。


高倉健が逝ってしまった。高校の大先輩にあたる方ではあるが、一度も同窓会でお会いしたことはないが、100周年記念の際には大きな花輪と感謝の手紙が来ていて、映画の”健さん”その通りの謙遜した内容だった。
彼の映画はあまり見た記憶がない。すでに任侠映画のスターで、耐え忍ぶ男を演じるプロトタイプの存在だった。

ブラックレインで、アンデイガルシアと、大阪のキャバレーで、頭にネクタイを巻きながらレイチャールズを歌うのが、妙にお茶目でカッコよい。多分、これがホントの健さんの気がしてならない。

ネットの追悼記事を読みながら、ガッツ石松が自分の息子に健太と命名したのは、高倉健の健と菅原文太の太を取って命名したとあった記事を泣き笑いしながら読んだ。傷だらけの天使の小暮おさむの
息子もしかり。。。
本当の銀幕のスターであった。

合掌。