池袋の古代史講座の生徒さんから大阪の百舌鳥古墳群と古市古墳群の資料をいただきました。
1泊2日の日程でバスに乗り、この2大古墳群の古墳を30カ所以上廻るというツアーに参加した時の資料です。
バスを利用するとはいえ、2日間で4万歩ほど歩いたそうなのでなかなかハードですね。(1万歩は4~5㎞くらいでしょうか)
百舌鳥古墳群(大阪府堺市)は日本最大の大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)や上石津ミサンザイ古墳(伝・履中天皇陵)という巨大古墳があります。
また古市古墳群(大阪府羽曳野市・藤井寺市)も大仙古墳に次ぐ大きさの誉田御廟山古墳(伝・応神天皇陵)があります。
奈良盆地の東南部、山の辺道付近に箸墓古墳が築かれるのが古墳時代の始まりで、年代は3世紀中頃と考えられます。
(研究者によって多少の年代幅があります)
そしてこの箸墓古墳周辺にいくつかの巨大古墳(200m以上としておきます)が築造され、大和古墳群などと呼ばれています。
大阪の百舌鳥古墳群と古市古墳群は奈良県の古墳群ほど古くはなく、4世紀末~5世紀初めくらい(西暦400年頃)に作られ始めたと考えられています。
それまでの3世紀から4世紀の期間には、大きな古墳が築造されていないエリアでした。
なぜこうした古墳の空白地帯に巨大古墳が築造されたのか。
大きな謎です。
5世紀の古墳からは甲冑や馬具などの鉄製品が出土するケースが多くみられます。
また日本書紀、古事記などの歴史史料では朝鮮半島から人が移動してくる話もよく書かれています。(渡来人)
こうした渡来人の動きと関係して、これまでの土器よりも高温で焼き上げる「須恵器」という土器が5世紀になると製造されていきます。
須恵器の製造の中心地は、堺市の南部や狭山市のエリアでした。
(泉北ニュータウン周辺)
文献史料では「陶邑」(すえむら)とあり、陶邑窯跡群と考古学では呼ばれています。
渡来人が関わって開発されたと考えられる須恵器の一大生産地である陶邑窯跡群の場所が、
巨大古墳が集まる百舌鳥古墳群や古市古墳群から近いエリアにあるのは偶然でしょうか。
須恵器を焼くのに適した粘土が取れる陶邑を先に見つけ、そこに近いエリアに古墳を築いたのかもしれません。
陶邑窯跡群の規模や年代など、詳細はまだ自分で確認していないのでこの話はまだ仮説ですがいろいろ調べてみようと思います。