書籍紹介:『町にオウムがやって来た』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

藤岡オウム騒動を記録する会編『町にオウムがやって来た』リベルタ出版、2001年

 



1999年8月から翌年1月にかけて、群馬県藤岡市にオウム真理教の信者が転入しようとした時の経緯を記録した一冊です。

編者の名前にある通り、「藤岡オウム騒動」の顛末を記したものとなっているわけです。

 

非常に興味深いのは、この記録の全体を監修しているのは岩本太郎氏というフリーのライターであるとはいえ、第三者的な目線からのみ記されているわけではなく、オウム転入反対運動の最前線にあった市民、さらには現地に引っ越してきたオウム信者たちの手記も含め、対立する当事者自身の肉声で事件が再構成されているところです。

つまり住民側とオウム側の両方の言い分が掲載されているわけで、ひとつの出来事を語る住民の手記のすぐ隣のスペースで、同じことについてオウム信者側の目線からの記録が掲載されるなど、構成も工夫が凝らされています。

 

藤岡というのは、政治的にもなかなか入り組んだ土地柄のようなのですが、オウムに出て行ってもらいたいという住民感情は概ね共有されていながら、実際の反対運動は必ずしも一枚岩ではないことが描写されるなど、「住民対オウム」という構図に囲い込みがちなマスコミ報道からは見えにくい現場の陰影が浮かび上がってきます。

本書の中で、オウム転入騒動というのは、オウムという宗教組織が問題であるだけでなく、それに対する反対運動を通じて地元に存在する問題もあらわになるような、「黒船」とも言える事件だったと述懐されますが、こういった箇所などは実際の体験があってこそ発せられる言葉なんだろうと思わされます。

 

非常に印象的なのは、退去運動を続ける住民と現地で起居するオウム信者二人との間に、いつしか軽口をたたき合うような奇妙な交流が芽生えていくところです。

住民の一人は、手記の中でその交流について次のように分析しています。

 

「なぜ社長宅〔=オウム拠点〕前では住民と信者のこうした対話が可能になったのだろうか。理由は明確でない。けれども思い当たる節はいくつかある。

 ①信者側に話し合う姿勢があった(最初の信者たちは頑なに話し合いを拒んだが、その後の二人の信者には対話に応じるだけの柔軟性があった)。

 ②対話するのに適当な場所があった(社長宅の周囲の塀が玄関脇の一カ所だけ低くなっていて塀越しの話ができた。また、運よくというか、ここは警察が常駐する場所からは死角になっていた)。

 ③住民運動が激しかった(このことが逆に住民と信者との対話・交流を深めるきっかけになった。他の地域の反対運動では、信者と住民との距離がつかず離れずで接点が作りえなかった)。

 ④好奇心の強い住民が多かった(③と関連するが、運動が激しかった反面「信者はどういう人間か」「何を考えているか」といった好奇心、興味あるいは怖いもの見たさの気持ちも強かった)。

 ⑤信者と住民の波長が変なところで合った(ボケとツッコミ)。

 両者の間に何がしかのフレンドリーな感覚が生まれた(「ストックホルム・シンドローム」と精神医学では命名するが)。とはいうもののオウム事件を忘却したり、それを許したりするものではない。とにかく、不思議な交流と言うしかない」

(132-133頁)

 

なにしろ当時はまだ地下鉄サリン事件からわずか四年、「オウム真理教」という教団名称もそのままだった時期で、その拒否反応は今から想像する以上のものがあったと思うのですが、そんな中でも一種の対話が成立しえたという点には、傍観者視点とはいえ読んでいて光明のようなものも感じました。

 

結局、住民運動の結果というよりは、不動産の取得手続きに法的な瑕疵があって、オウム側は藤岡からの退去を余儀なくされることになります。

ただ、その後も一部の住民との交流は続き、信者の就職斡旋や、麻原の子供の就学支援に関わっていく住民が出るなど、教団の問題と個々の信者の人権という問題とをきちんと切り離して対処しようという住民が少なくないこともまた、印象的でした。

 

ひとつの事件の記録としてだけでなく、住民による地域作りとはどうあるべきか、といったことまで考えさせられる読書でした。