本日は書籍紹介をいたします。
今回取り上げるのはこちら、
田中克彦『エスペラント――異端の言語』岩波新書、2007年
世界で使われる言語というものには、大きく分けて二種類あります。
日本語やフランス語、アラビア語などのように、一応は自然発生的に出来上がってきたとされる自然言語と、人間が意図的に作り出した人工言語、本書では計画言語と呼ばれるものであり、後者の代表格が本書の主題となるエスペラントです。
筆者はモンゴル語を専門とする言語学者で、言語学だけでなくモンゴルの歴史についてなど多くの著作がある方ですね。
エスペラントはユダヤ系のポーランド人ザメンホフによって発明された言語ですが、本書はそんなエスペラントの歴史だとか基礎的な文法だけを紹介するにとどまらず、そもそも言語とは何か、いわゆる自然言語が優勢を占める中で計画言語の果たす役割とは何か、など広く人文学全体を展望に入れつつ書かれているのが面白いところです。
また、エスペラントが主要なテーマであるにしても、ひとつの言語を論ずるということは当然にも比較言語的な視野が必要になるわけで、その中でたとえば日本語の特徴はこうだ、中国語の特徴はこうだ、という風に具体的に指摘されるのも、言語という問題への親しみを喚起してくれます。
多くの方はご存知でしょうが、エスペラントはアルファベットで表記されますし、西洋語を基本的な発想源にしています。
にもかかわらず、これが中国をはじめ、日本もそうなのですが、アジア圏で大いに広まったというのも興味深いところです。
著名な日本人を挙げますと、柳田国男や宮沢賢治、さらには国家主義者である北一輝までもエスペラントに惹かれていたということで、これは帝国主義の時代に世界を制覇した西洋語をいかに相対化するかという問題と関わってくるのだと想像され、言語と自由の関係についても考えさせられます。
言語と自由については本書の重要な主題にもなっているので、少し引用します。
「エスペラントを学ぶことの効果については、すでに多くの人がさまざまな意見を述べている。そしてそのそれぞれの意見はそれぞれにもっともである。なかでも特定の国家と、それに結びついた言語の権威から自由になれる、平等のことばであるという理念的な面は、たしかに強調される価値がある。
こうした効用は、外に向っての、いわば外的で、社会的な効用である。しかし、それをこえて、言語は内に向っての、自らのこころに向っての効用がある。
その最もいい例は宮沢賢治の場合だろうと思う。かれの作品には、エスペラントのオトのひびきと造語法にヒントを得たいくつもの賢治語が登場する。そこにはエスペラントにさそわれて入りこんだ森の中の道を、エスペラントによってきりひらこうとでもするような気配がただよっている。
もともと人が何かの外国語を学ぶときには、かならず、自らを閉じこめている、このせまくるしい日本語と日本社会のくびきから離れたいという気持がある。かつて明治のはじめに人々があんなに情熱的に英語を学んだときにも、かならずそのような動機があった。ことばは、かつらをつけたり、化粧をしたり、しゃれた服に着かえるようなぐあいに、外から加える造作や技術にとどまらなくて、かならず「こころのはたらき」というものが生じ、その力で、外にあるものとしての知識が内化されるのである。
賢治はエスペラントがたたえる解放精神を感じとって内化し、詩化した。それがかれの作品に、とらわれない、まっすぐ自然へとつながる自由な雰囲気をそえていて、読む人のこころをも自由にしてくれるのだと思う。人は、ことばによって自分をしばるのではなくて、自由にしたいのだから」
(204-205頁)
言葉の解放的な作用というものが、実に端的に語られていますね。
エスペラントは特殊な関心を抱いた人だけが学ぶマイナーな言語だとばかり思っていましたが、その意外なほどの射程の広さについて本書では教えられるところ大でした。
エスペラントを学んでみたくなる一冊でした。