書籍紹介:『科学思想史の哲学』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

金森修『科学思想史の哲学』岩波書店、2015年

 



金森氏は「エピステモロジー」と呼ばれるフランスで独自に発達した科学論の専門家で、本書はそんな筆者の論考集です。

エピステモロジーとは聞き慣れない方が多いかと思いますが、通常の科学史・科学思想史がガリレイ裁判とかニュートンによる万有引力の「発見」といった風に、著名な個人に照明を当て、いわば事件史を綴るように構成されるのに対して、科学において提出される「概念」の歴史に焦点を合わせようとするのがエピステモロジーである、とひとまずは言えるでしょうか。

 

たとえば本書で取り上げられているひとつが、血液循環です。

血液は心臓というポンプから送り出されて全身を循環し、また心臓に戻ってくるという事実は、それ以前の血液の作用に関する理解とは異なっており、それゆえに新説を唱えたハーヴェイが血液循環の「発見者」とされるわけですね。

これだけですと、新事実の発見を連ねることで科学の歴史を構想しようとする考え方とも親和的なわけですが、エピステモロジーはむしろハーヴェイが旧来の考え方からまったく離脱したわけではなく、むしろいかに旧慣の惰性に囚われていたか、その限界をも明らかにし、「血液循環」という概念が科学的真理として定着するのは、単なる過去との切断という様相においてではないことを示します。

 

その際に主役になるのはあくまでも個人ではなく概念であり、血液循環だとか地動説といった考え方の言説空間内部での位置がどのようにシフトしていったのかという歴史、概念史に照準するのがエピステモロジーだと言えそうです。

本書はエピステモロジーへの簡潔な入門書になっていると同時に、「私」とは何かという哲学の古典的な問いに向き合った論考や、科学技術全盛の現代社会における認識論の役割を論じた文章なども収録されており、とりわけ福島原発事故を経験した3.11以後の日本にとって、後者の観点は非常に重要なものと感じます。

少し引用します。

 

「ただ「歴史を知るのは大事だ」というだけなら、政治や芸術、文学などが問題な場合、あまりに当たり前に思えるだろう。ところが、実は科学でさえ、そうなのだ。学説の内容が時代によって変わっていくそのありさまを辿ることも、もちろん大事だが、それだけではない。科学研究のされ方、科学者の社会の中での位置などが時代によって違うことを確認できれば、現状に対する分析の眼差しが、より精密になる。

 一般に、自分の来歴を知らない知識、知ろうとしない知識は、同時代の社会状況や政治的介入に振り回され、その場その場でただ狂奔しているだけのものに成り下がる。大きな時間の流れの中で、今一瞬を定位してみるという作業がもつ重要性を、科学者もまた、強く自覚すべきだ。そうすれば、科学もまた、長い時間をかけて創り上げられてきた一つの文化なのだと認識できるはずだ。

 19世紀半ば、我が国が急速に自然科学を導入したとき、ヨーロッパの科学には当然のように存在していた思想的で哲学的な根っこの部分を、捨象して顧みなかった嫌いがある。〔中略〕

 たぶん近未来の日本科学は、ちょうど近代に西洋の科学者が行ったような思想的反省を、遅ればせながらせざるをえなくなるに違いない。それは客観性のあり方の分析だけで終わるのではなく、研究の意味や価値そのものへの根本的な問い直しとしても行われるようになるだろう。そして、その問い直しの作業の過程で、人々は自然に、科学史的な思考をしつつある自分に気づくはずである。要するに、科学にとっても、科学史は重要な土台になる、ということだ」

(330-331頁)

 

われわれ生き物という存在の神秘の中核に迫りつつある生命科学についても、本書は展望の内に入れています。

そして筆者は、否応なく前に進もうとする傾向のある科学に対し、社会的歯止めをかけるものとして、倫理や宗教といったものの必要性を論じもします。

 

一般論として、哲学という大きな学問枠組の中で科学哲学というのはどうしてもマイナージャンルにとどまっているのですが、科学をただ信奉するのでも、科学の外側から批判するのでもない、科学とは何かという問いを通じて批評することの重要性を認識させられる読書でした。