書籍紹介:『クラッシュ』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

J・G・バラード『クラッシュ』柳下毅一郎訳、創元SF文庫、2008年

 

 

 

 

タイトルの通り、自動車事故をテーマにした小説ですが、単に事故を取り入れたサスペンスといったものではなく、自動車事故に特殊なエクスタシーを感じる人々を取り上げ、現代社会における人間とテクノロジーとの相互浸透を問い詰めようとする意欲作です。

筆者バラードは多くのSF的な作品を世に問うてきた作家であり、中でも最高傑作と評されることも多いのが本書ですね。

 

そもそもSFというと『スター・ウォーズ』的な世界観――恒星間航行が可能になって宇宙戦争が華々しく戦われるようなもの、というイメージも強いと思われますが、SF文学ではそういった外宇宙への探求は1950年くらいでひとまず区切りというか、頭打ちの状態を迎えたとされます。

いわば閉塞感が漂い始めたSF文学に、今度は人間の内宇宙=インナー・スペースこと新たなフロンティアだという傾向が登場し、そんな新たな潮流を代表する作家となったのがJ・G・バラードだったというわけです。

 

だから本作でも、バラードが興味を示すのは自動車をめぐるメカニズムやテクノロジーそのものではなく、むしろテクノロジーに魅了され、取り憑かれた人間心理がどのような変容を被るか、機械化した人間心理の解剖学といった次元の事柄です。

本書はかなりポルノグラフィックな作品でもあるのですが、人間の生理機構はあたかも機械であるかのように描写され、自動車のボディや計測機器といったものが蠱惑的なセックスアピールを示すものとして描かれます。

人間と機械との倒錯というか、相互が不可分に嵌入しあうような領域の探求こそ、バラードという作家の本分だと言えるでしょう。

それは黙示録的、終末論的なイメージにまで昂進していくものなのですが、少し引用します。

 

「病院からキャサリンと変える道すがら、車があまりにも変わって見えるのに驚かされた。まるで事故によって自動車の本質が明るみに出たかのようだった。タクシーのリア・ウィンドウにもたれて、ウェスタン・アヴェニューの交差点に流れ込む車へ高まってゆく興奮に怯えている自分に気づいた。クローム板の飾りに反射する昼下りの陽光が槍となって肌に突き刺さる。ラジエータ・グリルの奏でるハード・ジャズ、対向車線を陽を浴びてロンドン空港へ向かう自動車の運動、道路標識と方向標示——すべてがおそろしく超現実的で、高速道路に解き放たれた邪悪なゲームセンターの加速するピンボールほどに刺激的だった。

 わたしがひどく興奮しているのに気づき、キャサリンは素早くエレベーターに連れ込んだ。アパート内部の視覚像も変化していた。キャサリンを押しのけてベランダに踏み出した。眼下の郊外道路を車が満たし、スーパーマーケットの駐車場を窒息させ、歩道にまで乗り込んでいた。ウェスタン・アヴェニューで二件小さな交通事故があり、空港への進入トンネルと跨線橋でひどい渋滞が発生していた。興奮しながらベランダに座るわたしを、居間から、背後の電話に片手をかけて、キャサリンが見ている。そのときはじめて、南の地平線から北の高速道路まで、無限に広がるワックスのコロナを見た。途轍もない危険の予感、すべての車を巻き込んだ事故が今にもおこるような不安を覚えた。空港から飛び立つ旅客たちはこの危険地域から、来るべき最終自動車戦争(オートゲドン)から逃れようとしているのだ。

 災厄の予感は離れなかった。帰ってからの数日間は一日じゅうベランダで過ごし、高速道路を流れる車を見つめて、自動車による世界の終わりが始まるしるしを見いだそうとした。あの事故は、終末の個人的なリハーサルだったのだ」

(58-59頁)

 

しかしある種の破局的なイメージって、世界的な同時性があったりするんでしょうかね。

『クラッシュ』が発表された1973年には、アメリカでトマス・ピンチョンが『重力の虹』を書き、日本では小松左京の『日本沈没』が大ベストセラーになり、また大江健三郎がやはり終末感の漂う傑作『洪水はわが魂に及び』を発表する、という具合に広い展望を持った重厚な作品が一気に出されています。

世界文学と時代の雰囲気、といったことにも目が向く、そんな読書でした。