書籍紹介:『人間の測りまちがい――差別の科学史』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

奈良の石屋〜池渕石材のブログ

奈良県奈良市とその近郊を中心に、墓石販売、石碑彫刻、霊園・墓地紹介を行なっております、池渕石材のブログです。
どうかよろしくお願いします。

本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

スティーヴン・J・グールド『人間の測りまちがい――差別の科学史』鈴木善次/森脇靖子訳、河出書房新社、1989年

 

 

 

 

身長や体重を測定するのと同じように、一律の基準で人間の能力や知性を測れたら、というのは19世紀以来人が思い描いてきた夢のひとつであり、躓きの石であり、そして何より人種や性別、階級に基づく差別主義の源泉となってきました。

本書は、人間の能力測定がどのように試みられてきたのかという、近代科学の特殊な一側面の歴史を語るものであり、同時にそれがいかに誤った見通しの下で企てられたのかを解説して、サブタイトルにもありますように科学の装いをまとった差別の歴史についての概説書にもなっています。

 

頭蓋骨の容量や頭の大きさを測ることで人間の能力、さらには人種間の優劣まで直線状に並べることが可能である、とするような考え方から、もう少し最近の知能テスト、いわゆるIQを測るとするテストに至るまで、本書が取り上げる内容は多様です。

が、そういったあらゆる試みに共通して内在しているのは、人間の能力は遺伝によって先天的に制約されているとする生物学的決定論、そしてそのように決定された能力が頭蓋骨を測定することやテストを用いることによって、一義的に決定できると考えるような偏見である、といったことが筆者によって明らかにされていきます。

 

驚くのは、優秀とされる学者であっても、どれほど自分の予断から逃れられないかということです。

白人の方が黒人やアジア人より優秀なはずだ、という先入観は、無意識のうちに計測を狂わせ、あるいは計測されたデータの解釈を、自らが持つ予断に都合がよくなるように捻じ曲げ、結果として、結論として実証されるべき主張がむしろ前提として機能しているために、実験もその前提を補強する方向にしか作用しない、ということになります。

例えば生得的知能を測るとされた知能テストの結果が、後天的な学校教育とテストでの得点との関連を示唆したとき、知能テストの推進者だったヤーキーズはデータを素直に受け取らず牽強付会な解釈に走ることになります。

少し引用します。

 

「ヤーキーズは、主要なパターンの中で、学校教育を受けた年数と知能との間の関連性を見出した。彼はテストの得点と教育年数との間に0.75の相関係数を算出した。アルファ・テストで平均点以下の3488人のうち、大学(歯科学生として)へ行っていたのはただ一人にすぎない。4人が高校を卒業し、高校に通ったことがあるのはたった10人であった。しかし、ヤーキーズは、学校教育が長くなるほど得点が上昇するとは結論せず、代わりに、生得的知能が優れた人ほど学校教育に多くの時間を費やすと主張した。「生まれつきの知能が学校教育を続けていく上でも最も重要な条件の一つであるという仮説は、この蓄積されたデータからもはっきりと支持できる。」

 ヤーキーズは黒人と白人の違いを考察する際に、学校教育と得点の間に最も強力な相関関係があることに気づいた。彼は意味のある社会観察をしたのだが、彼特有の生得主義による歪曲がなされたのである。

〔中略〕

 黒人が学校へ行かなかったのは、生まれつき知能が低いために気がすすまなかったことを反映しているのだ、と彼は主張した。人種差別(たとえ法的に是認されていなくとも、当時は一般に公認されていた)や黒人学校の劣悪な条件、あるいは貧困者が働かなければならない経済的必然性については一言も触れられていない」

(272-273頁)

 

これは20世紀初頭でのアメリカでの話ですが、その強烈な偏見が印象に残るとともに、実のところ現在の我々もこういった先入見から自由になっているのだろうか、ということが疑問になってきます。

ある「人種」や「民族」と呼ばれるまとまりのあるグループに対して、彼らは遺伝的に○○なのだ、と言うことはレッテル貼りとして強力であるだけでなく、科学的な言説という印象によって見かけの説得力を増します。

 

科学において問われるのは、一応は客観的とされるデータに向かう者の主観性の方なのである、ということが身に染みるような読書でした。