書籍紹介:『饗宴』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

弊社、例年通り一昨日1月8日が仕事始めでした。

卯年は飛躍・跳躍の年といった縁起を耳にしますが、それにあやかって我々も飛躍の一年とすべく頑張っていきたいところです。

さて本日は月曜日、今年も当ブログはお馴染みの書籍紹介から開始したいと思います。

今回取り上げるのはこちら、

プラトン『饗宴』久保勉訳、岩波文庫、1965年

 

 

 

 

古代ギリシア最大の哲学者であるプラトンの対話篇の中でも、最高傑作のひとつと名高いのがこの『饗宴』です。

わたしはギリシア語などまったく解しませんが、思想的に興味深いだけでなく、文学的テクストとして見ても非常に優れたものなんだそうです。

 

久保氏による翻訳が最初に出たのが1934年、その後本書の元となる新版が1952年に刊行され、1965年の改版を経て、わたしの手元にある2005年のもので第75版となっています。

驚くべきベストセラーですが、2000年以上も前から読み継がれてきていると考えると、逆にそれほど驚くべきことでもないのかもしれません。

 

本書のテーマとなるのはずばり愛、ないしその人格化であるエロスについてです。

ある宴席に集った人々が、その場の趣向としてエロス賛美の演説を次々にしていこうではないかということになり、愛の意義や由来、目的についてのさまざまな見解が披露された後、いわば真打という形でソクラテスが語る、という構成になっています。

 

非常に目につく特徴として、ソクラテスがすべて自分の言葉で語るのではなく、途中からは、ソクラテスがディオティマという女性から聞いた話を語る、という形式になっていて、これについては作者であるプラトンが、ソクラテスの説ではない自説を打ち出しているからだ、とう解釈があるそうです。

そもそもソクラテスという人物はまったく著作を残さず、その考え方はプラトンの著作によって窺われるだけなので、プラトンの思想とソクラテスの思想をどう腑分けするのかが大きな問題になってくるようですが、作品の構成や人物造形にそういう問いへの暗示があるというのは面白いですね。

 

プラトンの思想という点から眺めれば、本書の議論の中心は美のイデアに思い至るところにあり、美そのものに向かうことが愛の活動だということになるでしょうか。

少し引用します。

 

「美そのものを観るに至ってこそ、人生は生甲斐があるのです。いやしくもどこかで生甲斐があるものならば。一度でもそれを観たならば、貴方はもうそれを黄金や綺羅の類とも、又美しい少年や青年の類とも思いはしないでしょう、――今の貴方はそういうものを見て夢中になり、貴方も他の多くの人も、愛人に眺め入って絶えずこれと一緒にいられさえすれば、できることなら、食いもせず飲みもせずに、ただこれを眺め、これと一緒にいたいと願っているのですが。それでもし誰かが(と彼女〔=ディオティマ〕はいった)、幸いにも美そのものをば、きわめて明瞭に、純粋に、混ぜ物なしに、また人間の肉や色やその他幾多の死滅すべき無価値なる物などに汚されぬままに、観ることができたとしたならば――まして神々しい美そのものをば常に同一不二なる姿において観得たならば、――私達はその人の心境をどんな風に考えたらいいでしょうか。彼が眼をこれに向け、ふさわしい器官をもってそれを観、またそれと共に生きるとき、この人の生活はみじめなものとでも貴方は考えますか。むしろ貴方は(とディオティマはさらに続ける)、美を観るべき器官(心眼)をもって美を観る人は、ここで、ただここだけで、徳の影像よりも――彼の捕捉するは影像ならぬが故に――、真の徳を――その捕捉するは真理なるが故に――産出するに成功する、とは考えないのですか」

(126-127頁)

 

ギリシア哲学の根底には、「よき生」の追求があるそうですが、愛の活動によって美に到達した者は「幸福」を手にしたことになり、ここにひとまずよき生の探求はゴールを見ることになります。

 

『饗宴』はその戯曲的な性格の評価が高いとも言われるみたいで、このような探求の筋道がクリアであるというのも、そういった評価に寄与しているのかもしれません。

単なる哲学書であるにとどまらず、登場人物たちの対話がきわめて精彩を放っており、生き生きした魅力があります。

幸福とは、生き甲斐とは、といったことを考えさせられる機会になりました。