書籍紹介:『創造された「故郷」――ケーニヒスベルクからカリーニングラードへ』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

ユーリー・コスチャショーフ『創造された「故郷」――ケーニヒスベルクからカリーニングラードへ』橋本伸也・立石洋子訳、岩波書店、2019年

 

 

リトアニアの南側、バルト海に面した一角に、カリーニングラードという名称のロシアの飛び地があります。

カリーニングラードは州の名前であると同時に中心都市の名前でもありますが、かつてこの地域は東プロイセンに属し、州都はケーニヒスベルクと呼ばれていました。

大哲学者イマヌエル・カントを生んだ街としても有名です。

 

今では東欧と呼ばれる地域に属する旧ドイツ領のケーニヒスベルクが、現在ロシア領になっているのは、言うまでもなく第二次世界大戦の結果ですが、本書はケーニヒスベルクがいかにカリーニングラードになっていったかを追った地域史であり、その住民をめぐるドラマでもあります。

 

以前のケーニヒスベルクはロシア帝国に対して開かれた西欧の玄関口であった、というところから始まる本書は、基本的に歴史学的な手法を使って都市と地域の歴史を説き起こしていきます。

同時に、ソ連各地から当地に移住してきた人々にインタビューし、その証言も採録したオーラル・ヒストリーの試みという側面もあります。

 

最も印象に残るのは、独ソ戦でソ連が勝利した直後の数年、ドイツ系の旧住民とソ連からの新住民との雑居状態に生じた軋轢、葛藤、相互理解と交流を描く箇所でしょう。

両者の混在は結局、1947年から48年にかけてのドイツ人強制追放で幕を閉じることになります。

 

その後のスターリン期はプロイセン時代の遺産の払拭に熱が入れられ、スターリン批判以降はプロイセン時代も含めた過去の復権が進められているものの、歴史と記憶というのはやはり政治争点化しやすいようで、性急なプロイセン的過去の掘り返しを「分離主義」といった言葉で威嚇する勢力も存在しているということですから、歴史認識問題というのはどこの国でも克服されるべき課題として横たわっているのだなと感じます。

筆者は戦後のカリーニングラードの移り変わりを誰よりもよく総括できるのは、初期のロシア移住者の古老だろうと書きますので、ここで少し引用します。

 

「最初、この新しい領土への態度は異国向けみたいだった。でも人間はなんにでも慣れるもの。ドイツ風の建物はどれも似たようなものなんてことはなかったけれど、これと違って私たちは、どれもこれも同じような建物を建てた。本来の主人の文化を完全に根絶やしにして、自分たちの文化をここに持ち込んだってわけ。そして、自分たち流のソヴィエト的な生活を始めた。いまでは、しでかした過ちについて話すのはつらいわね。時代が違ったのよ。あらゆるものへの態度がまったく違った。もちろん、王城はとても残念だわ。よく考えもせずに破壊してしまったというのがすべて。でも当時は、なにもかも正しくやっているように思えた。どっちにしても、しでかした過ちについて、いまごろ話したからってなにになるの。まだ私たちになんとかなるものは、いま救い出すように努力しなくちゃね」

(246-247頁)

 

日本から遠く離れた地での住民の入れ替え劇にこれほど引きつけられ、胸を打つものがあるのは、おそらくそれが戦争を契機とした人口の大移動と難民という、二十世紀から現在もなお続く人類史の悲劇的な側面を象徴する光景に、直接つながるものがあるからではないかと思います。

 

日本列島でも、沖縄は住民の入れ替えとまではいかないものの、戦勝国による長い占領があり、その経験は今も基地問題として終わっていませんし、いわゆる北方領土ではカリーニングラードと同様のことが生じていたはずです。

人がある土地に根を張って暮らすということも、決して自明の事柄ではない、それが戦争の世紀なのだ、というようなことに思いを馳せる読書でした。