書籍紹介:『国家神道』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

村上重良『国家神道』岩波新書、1970年

 


本書は新書というフォーマットでありながら、国家神道についての基本文献として定評のあるものです。

 

国家神道というと、とかく左右のイデオロギー的見方を排して議論することの難しい対象であり、本書もまた、少なくとも明治維新以後に成立した国家神道については、戦前の日本ファシズムの中枢を担った国家宗教として徹底して批判します。

ただ、本書は戦時期やあるいは近代化以降の時期だけを捉えて国家神道を批判するものではなく、宗教学のそもそもとして民族宗教と創唱宗教を区別するといったところから始め、神道の展開をその歴史的形成過程とともに詳細に叙述していきます。

 

重要なのは、国家神道が従来の神道の流れを汲みつつも、近代天皇制国家と歩調を合わせて整備された、いわば近代の発明品であることが指摘されるところでしょう。

たとえば国家神道のための神社制度の整備によって、地方の小さな神社などが廃止あるいは統合され、民間信仰の豊かな広がりが圧殺されてしまったことが挙げられますが、国家神道は日本の伝統そのものなどではまったくなく、むしろ伝統的な要素の再編成によって仕立て上げられた新興宗教だというのは忘れてはならないと思います。

 

幕末から明治期にかけて数多く登場した新興宗教の多くも、教派神道という形で国家神道に取り込まれていきますが、そのことによって大衆的基盤を持っていたはずの宗教的創意が一元化され、日本において宗教の健全な発展が妨げられたという指摘も、聞くべきところが大きいと感じます。

総じて国家神道とは、その名称に体現されている通り、国家と宗教という、現代日本においても問題となる、というか近代国家が最初から孕んでいる矛盾を凝縮したような問いを発している、と言うことができるでしょうか。

少し引用します。

 

「祭祀と宗教の分離によって、超宗教とされた国家神道は、帝国憲法の「信教ノ自由」条項が対象とする宗教とは、次元を異にするものとして位置づけられた。しかし、国家神道の実体をなす神社神道と皇室神道が、宗教であるという客観的事実は厳として動かすべくもなかったから、国家神道の存在と国民にたいする信教の自由の保障は、つねに矛盾せざるをえなかった。帝国憲法の「信教ノ自由」の規定は、この矛盾を蔽いかくす役割を担うことになった。

 帝国憲法の起草者たちの多くは、祭政一致の国家神道をもって、日本における国教制度とは考えていなかったし、政府は、発布後も一貫して、日本には国教制度は存在しないという公式見解をとりつづけた。この立場から、帝国憲法の疑似合理性に対応する国家神道以外の宗教にたいする疑似政教分離主義が導かれ、日本の国家権力は、宗教的性格を本質としてもちながら、「反」宗教的性格と「親」宗教的性格の間を、その時々の政治上の必要から揺れ動くことになった。政府は、政教分離によって信教の自由を裏づけるという、形のうえではきわめて合理的な立場を、帝国憲法にもとづく宗教政策の基本とした。

 しかし現実には、国家神道は、まぎれもない国教であり、国民の基本的自由権としての信教の自由とも、国家権力の世俗性を確立する政教分離とも、本来、相いれない存在であった」

(129-130頁)

 

国家神道が宗教ではない、という欺瞞に満ちた前提があったからこそ、国家神道と国民との関わりは、信教の自由に代表される内面的自由の問題ではなくなり、「非宗教」という仮面をまとった国家的要求として、国民の内面にまで規制力を及ぼすことになったわけです。

内面をどのように確保するか、というのはそれこそ近代人が成立するための基本的テーマともいえるものですが、この意味で宗教とは近代の根っこにある問題だと、あらためて考えさせられました。